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3・13 あの日は卒業式の前日だった

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昭和20年(1945年)3月14日は
音羽国民学校(現在の磯路小学校地にあった)
磯路国民学校(現在の区民センター地にあった)
大阪市立すべての6年生の卒業式のはずでした

ところが前夜
第一次大阪大空襲で一夜にして
中央区浪速区西区大正区そして港区が焼けてなくなりました

その時
浪速区敷津国民学校4年生だった
辻和子さんに
昨年度も今年度も語り部として特別授業をしていただきました。

その辻さんから卒業前にお手紙が届きました
すぐに子どもたちに読み聞かせ、廊下にも掲示しましたが
ご本人の許可をいただき、記録のために掲載させていただきます。

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子どもたちへのお礼のことば遅くなりました。
去年の『磯路の子』の作品を合わせながら、ひとりひとりの感想文じっくり読ませていただきました。
磯路小学校のすばらしい取り組みに頭が下がる思いでおります。
ごめんなさい…連日テレビから放映される大きな爆発音、燃え盛る火の海、逃げる人の姿。
私が4年生の時の体験と同じ。
トラウマのスイッチがONになり、辛い苦しい日々です。
子どもたちには、こんな思いをさせたくないです。トラウマって消えないのですね。

6年生のみなさんへ
小学校生活もいよいよ残り少なくなりましたね。みなさん、お元気ですか。
5年生の時も6年生の今も、コロナ禍戦争の中での学校生活、今まで当たり前でやって来たことが、制限されたり、本当に大変な小学校生活でしたね。でもこれからの長い人生の中で、私のように大きな体験のひとつになるかも…と、自分自身を大切にしながら、いつも笑顔でがんばってください。
この間は、平和学習の感想文ありがとうございました。とてもうれしかったです。しっかりと聞き取ってくれて、自分のことばで書いてくれているのには感動しながら、去年いただいた「全校文集『磯路の子』」をまた5年生の思い出の作文を読み合わせながら、ひとりひとりに返事を書きたい気持ちになっています。
あたたかい雰囲気の磯路小学校、「また、ぜひ」と楽しみにしていましたが、歩行困難になり、会談の上り下りもとても無理の毎日でした。
そんな時、糸井校長先生から電話で「子どもたちが待っています!」「5年生6年生の子どもたちがみな待っています!」「迎えに行きますから」と、校長先生の熱意に「磯路の子」の文集から皆さんの顔を思い浮かべ、みなさんのおかげで目標をもち、がんばりました。
去年の11月15日、みなさんと出会えた日の事は忘れません。不安な気持ちになっていた私に、女の子が付き添ってくださり、広い会場では大きな拍手で迎えてくださり、5年生6年生の学習態度の良さに、いっぱい話をさせていただきました。
そしてお別れで会場を後にする時も、大きな拍手でいつまでも、ヨチヨチ歩きでふり返り、あいさつをすると、またひと周り大きな拍手に見送られ、感動し涙が出そうになりました。今も心に残っています。
家に帰ってからも、夜もみなさんのことはいつまでも頭から離れずに、「やれば出来る。出来ないのはやらないからだ」のことばを思い返しながら、磯路小学校のみなさんのやさしさに感謝し、幸せをかみしめております。
本当にありがとうございました。磯路小学校での思い出いっぱいを胸に、笑顔で巣立ってくださいね。みなさんの健康と幸せを祈っています。
卒業式の日、祝電を送りますね。

5年生のみなさんへ
平和学習の感想文ありがとうございました。私の身体を労ることばをいっぱい書いてくださっているやさしいみなさんに感動し、本当にうれしく喜んでいます。
そして、去年いただいた『磯路の子』をまた広げ、4年生の作品と感想文を合わせてじっくり読みながら、ひとりひとりにお返事を書きたい気持ちでおります。
会場ではどちらが5年生かなと思ったくらい、6年生と一緒にしっかりとした学習態度で聞いてくれていたみなさんにびっくりしました。立派な5年生ですね。頼もしく思いました。お別れする時、ヨチヨチ歩きの私を鳴り止まぬ大きな拍手で送りだしてくださったことには本当に感動し、涙が出そうになり、感謝と幸せな気持ちになったことは今も忘れられません。うれしかったです。
『磯路の子』とみなさんからの感想文は、私の大事な宝物です。もう一度、ありがとうございました。早くマスクをはずしたやさしいみなさんのお顔が見られますようにと、健康と幸せをお祈りいたしております。

校長発
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