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140周年に向けて(1)

 いよいよ、140周年式典が今週末5月31日(土)に行われます。そこで、以前、紹介した「140周年に向けて」を再アップします。さらに詳しい南百済小学校の歴史は、式典当日配布します記念誌をご覧ください。
 南百済小学校は明治7年(1874年)に開校され、今年の6月1日で創立140周年を迎えます。
 そこで、創立140周年に向けて、南百済小学校のなまえの由来や歴史を紹介していきたいと思います。
 まず、第1回目として、南百済のなまえの由来を紹介します。

 「百済」とは、4世紀中頃から7世紀中頃まで、高句麗や新羅と共に朝鮮半島で栄えた王朝の名前です。当時、大阪は難波と呼ばれ、大陸への玄関口の港として栄えていました。大陸からは、たくさんの人々が渡来し、新しい文化を伝えました。日本で広く信仰されている仏教も、538年百済から伝わりました。
 やがて、百済国が衰退し滅亡すると、王族の人たちの多くが日本に渡り、この地域に住むようになりました。難波には西成郡・東成郡・住吉郡・百済郡の四郡がありました。しかし、王族が河内国(現枚方市付近)に本拠を移したことで、平安中期から、「百済郡」の地名は消えてしまいました。
 およそ1000年もの長い年月を経て「百済」の地名は復活します。明治22年(1889年)に鷹合・砂子・湯谷島・中野の四ヵ村が合併し、「南百済村」ができたのです。本校の正門左の石碑にも「南百済村」の表記が残っています。
 しかし、「南百済村」は、大正14年(1925年)に大阪市に編入され、地名としては消えてしまいましたが、現在でも、「南百済」のなまえは、「南百済小学校」・「南百済公園」・「南百済連合町会」として脈々と受け継がれています。。 
 
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140周年に向けて(2)

 前回は、南百済小学校の名前の由来、「百済」について紹介しましたが、「南百済」以外にも、大阪やその周辺には、「百済」に由来する地名やお寺が数多く残っています。
 現在のJR百済貨物駅周辺もその1つで、由来は「南百済」と同じです。
古代の「百済郡(くだらのこおり)」の北部にあたり、明治時代に、「北百済村」として復活した地域です。こちらも、今は地名として残っていませんが、「JR百済貨物ターミナル駅」・「百済駅前」交差点等はその名残です。

 
 
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140周年に向けて(3)

 摂津国百済郡(せっつのくにくだらごおり)が地名から消えたのは、百済王家が、本拠地を河内国(現枚方市)に移したのが理由でしたが、枚方市にも、現在「百済」の地名は残っていません。しかし、百済王敬福が750年頃に建立したといわれる百済寺跡や百済王を祀る百済王神社が残っています。
 また、聖徳太子が、7世紀前半に渡来人のため建立したといわれる百済寺が、奈良県北葛城郡や滋賀県東近江市に残っているそうです。
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140周年に向けて(4)

 地名に「百済」の名が残る地域がありました。場所は奈良県北葛城郡広陵町です。
この町を流れる曽我川はかつて百済川と呼ばれ、聖徳太子の遺志で建立された百済大寺があったとされています。
 地名には、「奈良県北葛城郡広陵町大字百済・・・」という形で残っています。お寺の近くには、百済公民館や百済郵便局がありました。
 
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140周年に向けて(5)

 滋賀県東近江市にも、「百済」の名を持つ聖徳太子ゆかりの百済寺(ひゃくさいじ)があります。
湖東三山に数えられる名刹で、桜や紅葉の美しさでも知られています。
 周辺には、「百済寺町」として「百済」の文字が地名に残っています。
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