消えたわが母校2 〜阪東高等小学校〜
- 公開日
- 2017/08/06
- 更新日
- 2017/08/06
お知らせ
「西今里小学校」に続いて「阪東小学校」です。これも、深江小学校の系譜に関係の大きい学校です。
【阪東高等小学校】東成区の高等小学校
高等小学校を知る人はもはや少ないと思います。昭和22年に現行の中学校制ができるまでは、現在の中1、中2の教育を担当した小学校です。
小学校6年を卒業後に、中学校や高等女学校に進学しなかった児童を受け入れました。当時は義務制ではなかったため、多くの子どもたちはここに入学をしました。
阪東高等小学校は昭和6年4月の開校で、東成区の学童を教育する学校で、商業、工業に力を入れました。
同校が開校されるまで、現東成区の高等科の子どもたちは中本尋常高等小学校、神路尋常高等小学校、大成尋常高等小学校に通学していました。
阪東高等小学校ができると、中本第2・第4、今里、東小橋、新しく開校した深江、東中本、片江の各尋常小学校からも阪東高等小学校へ進学してくるようになり、児童数は昭和14年には2000人を超えました。教室に不足が生じたため、分校が設けられ、一つは中本小学校の近くの八王子神社の境内、もう一つは現在の緑橋交差点のあたりにありました。
昭和15年には阪東校から、9人の満蒙開拓義勇軍への志願者があり、全校児童から激励を受け、満洲へ行くために茨城県の内原訓練所へ出発して行ったたそうです。
昭和19年、東成区の高等小学校(当時国民学校)は通学区の変更を行いました。先に書いた西今里高等小学校(国民学校)を男子専用の学校とし、阪東高等小学校を女子専用としました。阪東高等小学校(国民学校)は昭和20年6月15日の空襲ですべては焼け落ち、廃墟となりました。
阪東、西今里両校は、新学制の発足をひかえて、昭和22年3月末をもって休校となりました。跡地は東陽中学校(当時、東成1中)が使用し、東陽中学校が移転後は、大阪市立西今里中学校(本庄中学校分校)が使用し、現在は中大阪朝鮮初中級学校となっています。
参考文献:「消えた我が母校(柘植書房)」の中から、俳優の故金田龍之介氏(北都島小学校、昭和16年卒業)の言葉を紹介いさせていただきます。
『私には母校がない、空襲で焼けてしまったのである。しかし、夢の中ではいつも、少年の日の私がいる。教室や廊下を走り回っている姿、懐かしい校舎の姿、友達の顔も見える。消えた我が母校への私の思いは募るばかりである。「もう40年も50年も同窓の友に会っていない。会いたいといつも思う。」同世代の友人たちの思いも同じである。そんな思いを受けとめ、こつこつと足で探し求めて消えた学校を復元してくださっている研究者がいる。ありがたいことである。そしてこの本にまとまった。ぜひ、手にとって、子どもの頃のあなたへ帰ってください。』