昭和のひがしなり
- 公開日
- 2016/08/15
- 更新日
- 2016/08/15
校内の様子
昭和初期の東成区は、現在の生野・旭・城東・鶴見の4区をも含む広大な区域を有し、人口も33万人を数える大区となり、区政は繁雑を極め、そのため昭和7年「旭区」が、同18年「生野区」「城東区」が分区独立しました。昭和という時代は、大阪市が飛躍的発展した時期です。
大阪城の再建・御堂筋および地下鉄の開通など近代都市の機能の充実がなされ、日本の代表的一大商業都市へと発展しました。このような大阪市の発展に伴い昭和2年、市電(路面電車)が下味原(天王寺区)から今里まで延長開通し、城東線も高架化・電化がされ、同8年には「森の宮」「鶴橋」の開業と共に区民の移動は飛躍的に便利になりました。小学校も、東小橋・今里・東中本・深江・片江と次々に新設され、戦後の宝栄小学校新設により今日の11校となりました。
しかし、昭和9年の室戸台風は東成区の各小学校の校舎に甚大な被害をもたらし、教員、児童等多くの犠牲者をだすなど悲惨な爪痕を残しましたが、これを機に校舎の鉄筋化がはかられました。昭和20年3月の大阪大空襲、同年6月の空襲では当区の西部を中心に約6,400の全焼家屋と約20,700人の罹災者をだしました。8月14日大阪砲兵工廠を中心とした大空襲の余波を受け「森の宮」駅周辺も甚大な被害を蒙り、第2次世界大戦は終結をすることとなりました。
大阪市ホームページより
http://www.city.osaka.lg.jp/higashinari/page/0000000038.html