沿革
80周年 創立記念日 平成28年11月15日 平成28年11月15日に高倉小学校は、80回目の創立記念日を迎えます。高倉小学校の始まりは、昭和11年5月4日でした。 当時、高倉地域の子どもたちは、大阪市城北尋常小学校(現在の大阪市立城北小学校)まで登校していました。あまりにも遠いことを問題だととらえ、大阪市に熱心に学校建設のお願いをしたのが、高倉地域の方々でした。また、城北小学校は学校規模が大きくなりすぎたこともあり、校区を分けることになりました。地域の方々の熱意によって誕生したのが大阪市赤川尋常小学校、つまり現在の高倉小学校でした。 校名については、高倉小学校の住所(所在地は同じ)が旭区赤川町という町名だったため、赤川尋常小学校としていました。(昭和16年の国民学校令により、大阪市赤川国民学校に改称しました。) そのとき、一番の問題が先生の人数でした。一人の先生が、複数の学級をかけもちしていることもありました。先生自身が、知り合いに一人づつお願いして、引き受けてもらうといった状態でした。 昭和18年4月1日付で大阪市の行政区の分増区と境界整理が全市的に実施されることになり、これまでの旭区も縮小再編されることになりました。これまでの旭区のうち城東貨物線より西の地域は、都島区となりました。また行政区変更と同時に、従来の赤川町のうち都島区になった地域については高倉町へと町名を変更しました。町名変更に伴って、昭和19年4月1日年には大阪市高倉国民学校へと学校名を変更しました。 太平洋戦争の激化により、大阪市を含む大都市の国民学校の児童に対して学童疎開をおこなうよう指示が出されました。大阪市では親戚同士での疎開を原則としたものの、疎開できない児童については学校から集団疎開に参加させることにしました。集団疎開先の府県については大阪市が区ごとに指定し、都島区の集団疎開先は石川県と決まりました。高倉国民学校の児童は、石川県小松市および能美郡根上町・寺井野町・山上村・国府村(現在の能美市)へ疎開しました。 昭和20年6月7日の大阪大空襲では、都島区の家屋の9割近くが被災し、桜ノ宮駅までの一面が焼野原になりました。学校も木造の部分が焼失しました。また運動場に1トン爆弾が落下し、大きな穴となっていました。そこに雨水がたまり池になったそうです。 昭和22年には、学制改革により、現在の大阪市立高倉小学校という校名へ改称しました。 昭和30年代には、児童数が急増し、二部授業がなされました。学力低下が心配されましたが、当時のご父兄の理解と先生方の熱意によって、心配は解消されたそうです。また、このころは学校歯科医の先生の熱心の指導により「大阪市よい歯の学校」としての表彰を受けたそうです。昭和45年頃から校区内で大規模団地の開発が進められ、児童数が急増しました。そのため校区を分け、昭和56年4月1日に高倉小学校から分離するかたちで大阪市立友渕小学校が開設されました。高倉小学校と友渕小学校の校章がとてもよく似ているのは、そういった理由からです。 高倉小学校には、このような歴史があります。昨年度3月までの累計卒業生数は、14,837名を数えます。その中で、連綿と受け継がれてきた高倉小学校、高倉地域のよき伝統を守り伝えていきましょう。 |