校名の由来
本校の校地は、旧石見国津和野藩の蔵屋敷跡です。校名は、その蔵屋敷内の井戸「此花乃井」の通称に因んだものです。この泉水は、明治元(1868)年の明治天皇の大阪行幸時に名水として用水に選ばれ、献上されました。 井戸は、大正時代に埋没しますが、石の井戸枠が今も残されています。井戸枠は、数度の修復・移転を経て、明治42(1909)年に建立された「此花乃井」の顕彰碑、昭和15(1940)年の修復時に建立された石碑などと共に、校地の北東部で保存されています。
創立記念日
昭和24(1949)年6月12日に開校記念式を挙行したことを記念して、6月12日を創立記念日に定めています。
校地の変遷
学制が頒布された明治5(1872)年に、津和野藩蔵屋敷を買収修繕し、大阪府摂津国西区第四区小学校が開校されます。その後、明治8(1875)年に四番小学校、明治12(1879)年に花の井小学校と校名が変わります。
明治17(1884)年に、花の井小学校、江北小学校、江西小学校が統合され、江戸堀小学校となり、校舎も建て替わります。
大正10(1921)年、高等科併置により江戸堀尋常高等小学校となります。大正10(1921)年に木造校舎、大正13(1924)年に鉄筋コンクリート造の校舎が増築されます。鉄筋コンクリート造の校舎は、花乃井中学校の現校舎建設がはじまる昭和57(1982)年まで使用しました。
昭和16(1941)年、国民学校令施行により江戸堀国民学校となります。昭和21(1946)年3月末に江戸堀、広教、明治、西六の各国民学校が西船場国民学校(現西船場小学校)に統合されます。その後、もと江戸堀国民学校の校舎は、大阪大倉商業学校が一時使用します。
昭和24(1949)年4月、もと江戸堀国民学校に、大阪市立西第二(花乃井)中学校が開校し、現在に至ります。
【参考文献】 ・江戸堀教育會「江戸堀誌」大正14(1925)年3月 ・西区史刊行委員会「西区史 第3巻」昭和54(1979)年5月 ・川島智生「近代大阪の小学校建築史」平成29(2017)年2月 ・関西大倉学園「関西大倉学園創立120周年記念誌」令和4(2022)年10月
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