「いじめについて考える」日の講話
13日に校長講話を行いました
今日は、大阪市の小中学校一斉に「いじめを考える日」です。でも、そもそもなんで「いじめを考える日」なんでしょうね?これだけ、テレビや新聞で「いじめ事件」を報道しているにもかかわらず、なくなっていないということですよね。悲しいことです。まず、最初に大きな声で言っておかなければならないことは「いじめられても仕方がない人、いじめられていい人」はこの世の中に一人もいないということです。 さて、これまでも何回も「いじめはアカン」と聞かされてきましたね。その中で「いじめの構造」って聞いたことがある人もあると思います。いじめる人、いじめられる人。それだけでいじめは成り立っているのではありません。そこに、いじめをけしかける人がおり、そして多くの傍観者と呼ばれる「見て見ぬふりをする人」や「知っていて知らぬ顔をする人」がいます。いまここで校長先生が話をしていても、『自分には関係ない』と思って話をボーッと聞いていたり、違うことを考えたりしている人はいませんか?大丈夫ですか?いつも以上にしっかりと聞いてください。 教室に40人いて、《いじめる人》が数人いて、《いじめられる人》がおそらく一人。《けしかける人》は最初のうちはわずかでしょう。そして、《見て見ぬふりをする人》その他大勢。それが段々と力関係が変わり、《もの言わぬ人》が増えると《けしかける人》が増え《いじめる人》はますます行動をエスカレートさせます。 ところが《見て見ぬふりをする人》が「いじめは絶対許さない」と決意し《もの言わぬ人》が《もの言う人》に変わると、《いじめる人》は勢いを失い《けしかける人》は姿が見えなくなり、いじめは沈静化していきます。確かに「いじめは絶対許さない」と決意し《もの言わぬ人》が《もの言う人》に変わることは簡単なことではありません。勇気のいることです。『いじめる人をかばうと、今度は自分がいじめられるのではないか』と心配する声も上がります。しかし、そんな声におびえ《見て見ぬふりをする人》を続けることが本当に正しいことなのでしょうか。なかなか勇気を出して言えない場合は先生に相談してください。その場合はどの先生でもかまいませんので言ってきてください。 もう一度言いますが「いじめられても仕方がない人、いじめられていい人」はこの世の中に一人もいません。そのことをしっかりと心で受け止めてください。 |
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