稔るかな。。。そこで、住吉区の依羅小学校から苗をわけてもらって再挑戦していました。植え付けが遅れて、無事に育つか心配していたのですが、元気に育ってくれています。そろそろ穂がでて花が咲くころなのですが。。。。 今日も暑いです!二学期に向けて始動さて、給食室は、調理員さん方が二学期の給食に向けて準備を整えてくださっています。連日の猛暑日で、調理員さん方も汗だくですが、調理器具を洗ったりメンテナンスをしたりと、大忙しです。暑さに負けず、みなさんがもりもり給食を食べてくれることをいつも考えてくださっています。 始業式には、中津小のみなさんが元気に登校し、学校にみなさんの元気な声が響くことを楽しみにしています。残り2週間を有意義に過ごしてください。 ピッチングボードボールを投げるときの「まと」です。 「学校運営の計画」のページにも掲載しているように、今年度、本校では「健康・体力の向上」の取り組みを「子どもたちの運動に対する興味・関心や技能を高めるために、体育的行事や外遊びの取り組みを全学級で実施する」としています。 ピッチングボードも、この取り組みの一環として購入しました。 どのように使っていこうかな・・・子どもたちと考えていきたいと思います。 終戦の日
今日は、68回目の終戦の日です。
「わたしたちのなかつ」という本に、戦争中の中津小学校の様子が次のように書かれています。 昭和16年 中津小学校は、中津国民学校という名前でした。 食べるものも少なく、苦しい時代でした。 昭和18年ごろから戦争がはげしくなり、都会ではいつ空襲を受けるかもしれず、あぶないので、子どもたちは集団疎開といって、いなかへ避難しました。中津国民学校は、子どものいない学校になったこともありました。 昭和19年には、京都府福知山へ、福知山がきけんになってからは、京都府天田群河合村に疎開しました。夜になると中津の父母や家族を恋しがって涙をながす友だちもいました。 昭和20年3月と6月、大阪に大空襲があり、6月の空襲で中津の町は、ほとんど焼けてしまいました。たくさんの人が亡くなったりけがをしたりしました。また、たくさんの家も焼けてしまいました。 8月15日に終戦になりましたが、大阪市の被害が大きかったため子どもたちは疎開先からすぐには帰ってこられず、その年の10月にやっと中津に帰ることができました。 |