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歴史を訪ねて7(大塩平八郎2)

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「槐」なんと読むかわかりますか?
「えんじゅ」と読みます。マメ科の植物で、中国が原産です。排気ガスに強く、伸びすぎないので、街路樹としてよく植えられています。花が散った後、木の下が真っ白になります。造幣局の北側、国道1号線沿いに、「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」の石碑が建っています。天保8(1837)年、大塩平八郎は飢饉で難民が続出する事態を黙視できず乱を起こし、町奉行所と砲火を交えたが鎮圧され、自刃しました。この砲弾で引き裂かれた槐(えんじゅ)が、150年近く枯れずに残っていましたが、昭和59年、ついに枯れ死しました。平成22年1月3代目となる若木が植樹されました。車の往来の激しいこの地で咲く槐を見ていると、平八郎の無念と人民への熱いメッセージがよみがえってきます。(写真は「造幣局のあゆみ」(独立行政法人 造幣局発行)より引用)

歴史を訪ねて6(大塩平八郎1)

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今回は、大塩平八郎の史跡を紹介します。大塩平八郎(1793〜1837)は、天満の与力でした。与力とは、町奉行、所司代といわれる役所につとめ、同心という役の人を指図して、その仕事を助け事務を分担していました。現在の警察や、裁判所の仕事の助けをしていたのではないかと思います。
大塩平八郎は、今の造幣局(学校の裏)のある所で生まれ、幼い頃の名前は文之助と言い、後に中斉(ちゅうさい)と名乗りました。
大塩平八郎は、有能な与力でしたが、38才という若さで引退し、自宅に陽明学を教える塾を開きました。これが造幣局の住宅地の中にある「洗心洞跡」としるされている所です。

歴史を訪ねて5

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滝川小学校をぐるっとまわってみました。学校の東側と北側には、とても立派な煉瓦の塀が残っています。造幣局ができたときの名残だと思います。戦火や幾たびの自然災害にも耐え、現存する赤レンガに歴史の重みを感じます。
学校の北には与力の役宅門があります。このあたりは、江戸時代には与力や同心たちの屋敷が立ち並んでいたそうです。だから、今でも「同心町」や「与力町」の地名が残っています。学校裏にある、この与力の役宅門は昭和23年に、ここに移されました。

歴史を訪ねて2

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明治5年8月北大組第4区小学校として旧滝川町(滝川公園北側)に開校したのが、本校の歴史の始まりです。天満組の惣会所のあった所に誕生し、建物もそのまま使用しました。初めは、4年制で、207人(男子121人、女子86人)が入学しました。明治9年9月 第4第1小区 滝川小学校と改称し、明治44年11月、川崎東照宮のあった現在地に移転しました。(本年で創立141周年を迎えます。)上の写真は、約170年ほど前の学校のあった場所の絵地図です。

歴史を訪ねて4(校章)

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滝川小学校の校章は、明治35年5月5日に、制定されました。
外側の上の部分が「タ」、下の部分が「キ」、中央の3本線が「川」と「小」をかねて図案化したものです。
文字: 大きく | 小さく | 標準 配色: 通常 | 白地 | 黒地
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