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すっきゃねん滝川

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今年も滝川公園で、「すっきゃねん滝川」が行われました。7日、8日の両日、子どもたちもたくさん来て、出店や盆踊り、ダンス振付コンテストやビンゴゲームなどを楽しみました。北陵中学校や扇町総合高校の吹奏楽部の素晴らしい演奏も聴くことができました。今年の子どもの店は、ペットボトルボーリングでした。7日のみでしたが、約200人のお客さんが来てくれました。PTAもお店を出しました。おとうさん中心のスマートボールは、本格的です。たくさんの人でにぎわいました。おかあさん中心の店は「いかやき」です。うだるような暑さの中、たくさん焼いていました。「子どもたちの笑顔が見たくて、がんばっています。」そんな声が多く聞かれました。地域、PTAのあたたかい心に支えられた滝川の子どもたちは、幸せだなと思います。

歴史を訪ねて8(校歌)

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 校歌は、昭和11年11月にできました。作詞は、文学博士の佐佐木信綱先生、作曲は、大阪音楽学校(今の大阪音楽大学)をつくった永井幸次先生です。

のぼる朝日と やすけきみ国
咲くやこの花 なにわづに
歴史も古き 滝川の
流れうけつぎ われらは学ぶ


歴史を訪ねて7(大塩平八郎2)

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「槐」なんと読むかわかりますか?
「えんじゅ」と読みます。マメ科の植物で、中国が原産です。排気ガスに強く、伸びすぎないので、街路樹としてよく植えられています。花が散った後、木の下が真っ白になります。造幣局の北側、国道1号線沿いに、「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」の石碑が建っています。天保8(1837)年、大塩平八郎は飢饉で難民が続出する事態を黙視できず乱を起こし、町奉行所と砲火を交えたが鎮圧され、自刃しました。この砲弾で引き裂かれた槐(えんじゅ)が、150年近く枯れずに残っていましたが、昭和59年、ついに枯れ死しました。平成22年1月3代目となる若木が植樹されました。車の往来の激しいこの地で咲く槐を見ていると、平八郎の無念と人民への熱いメッセージがよみがえってきます。(写真は「造幣局のあゆみ」(独立行政法人 造幣局発行)より引用)

歴史を訪ねて6(大塩平八郎1)

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今回は、大塩平八郎の史跡を紹介します。大塩平八郎(1793〜1837)は、天満の与力でした。与力とは、町奉行、所司代といわれる役所につとめ、同心という役の人を指図して、その仕事を助け事務を分担していました。現在の警察や、裁判所の仕事の助けをしていたのではないかと思います。
大塩平八郎は、今の造幣局(学校の裏)のある所で生まれ、幼い頃の名前は文之助と言い、後に中斉(ちゅうさい)と名乗りました。
大塩平八郎は、有能な与力でしたが、38才という若さで引退し、自宅に陽明学を教える塾を開きました。これが造幣局の住宅地の中にある「洗心洞跡」としるされている所です。

歴史を訪ねて5

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滝川小学校をぐるっとまわってみました。学校の東側と北側には、とても立派な煉瓦の塀が残っています。造幣局ができたときの名残だと思います。戦火や幾たびの自然災害にも耐え、現存する赤レンガに歴史の重みを感じます。
学校の北には与力の役宅門があります。このあたりは、江戸時代には与力や同心たちの屋敷が立ち並んでいたそうです。だから、今でも「同心町」や「与力町」の地名が残っています。学校裏にある、この与力の役宅門は昭和23年に、ここに移されました。
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学校行事
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