すっきゃねん滝川歴史を訪ねて8(校歌)のぼる朝日と やすけきみ国 咲くやこの花 なにわづに 歴史も古き 滝川の 流れうけつぎ われらは学ぶ 歴史を訪ねて7(大塩平八郎2)「えんじゅ」と読みます。マメ科の植物で、中国が原産です。排気ガスに強く、伸びすぎないので、街路樹としてよく植えられています。花が散った後、木の下が真っ白になります。造幣局の北側、国道1号線沿いに、「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」の石碑が建っています。天保8(1837)年、大塩平八郎は飢饉で難民が続出する事態を黙視できず乱を起こし、町奉行所と砲火を交えたが鎮圧され、自刃しました。この砲弾で引き裂かれた槐(えんじゅ)が、150年近く枯れずに残っていましたが、昭和59年、ついに枯れ死しました。平成22年1月3代目となる若木が植樹されました。車の往来の激しいこの地で咲く槐を見ていると、平八郎の無念と人民への熱いメッセージがよみがえってきます。(写真は「造幣局のあゆみ」(独立行政法人 造幣局発行)より引用) 歴史を訪ねて6(大塩平八郎1)大塩平八郎は、今の造幣局(学校の裏)のある所で生まれ、幼い頃の名前は文之助と言い、後に中斉(ちゅうさい)と名乗りました。 大塩平八郎は、有能な与力でしたが、38才という若さで引退し、自宅に陽明学を教える塾を開きました。これが造幣局の住宅地の中にある「洗心洞跡」としるされている所です。 歴史を訪ねて5学校の北には与力の役宅門があります。このあたりは、江戸時代には与力や同心たちの屋敷が立ち並んでいたそうです。だから、今でも「同心町」や「与力町」の地名が残っています。学校裏にある、この与力の役宅門は昭和23年に、ここに移されました。 |
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