歴史を訪ねて6(大塩平八郎1)大塩平八郎は、今の造幣局(学校の裏)のある所で生まれ、幼い頃の名前は文之助と言い、後に中斉(ちゅうさい)と名乗りました。 大塩平八郎は、有能な与力でしたが、38才という若さで引退し、自宅に陽明学を教える塾を開きました。これが造幣局の住宅地の中にある「洗心洞跡」としるされている所です。 歴史を訪ねて5学校の北には与力の役宅門があります。このあたりは、江戸時代には与力や同心たちの屋敷が立ち並んでいたそうです。だから、今でも「同心町」や「与力町」の地名が残っています。学校裏にある、この与力の役宅門は昭和23年に、ここに移されました。 歴史を訪ねて2歴史を訪ねて4(校章)外側の上の部分が「タ」、下の部分が「キ」、中央の3本線が「川」と「小」をかねて図案化したものです。 歴史を訪ねて11616に徳川家康が没すると、その子で江戸幕府2代将軍である秀忠は、家康を東照大権現という神様としてまつり、各地に東照宮という神社を建てることを命じました。 大阪には、翌年この滝川小学校の地に、当時の大阪城主である 松平忠明たちによって東照宮が建てられました。一説には豊臣氏をうやまう大阪の人々の思いを薄れさせるために建てられたとも言われています。 明治6年になって、川崎東照宮は廃されました。 |
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