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歴史を訪ねて6(大塩平八郎1)

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今回は、大塩平八郎の史跡を紹介します。大塩平八郎(1793〜1837)は、天満の与力でした。与力とは、町奉行、所司代といわれる役所につとめ、同心という役の人を指図して、その仕事を助け事務を分担していました。現在の警察や、裁判所の仕事の助けをしていたのではないかと思います。
大塩平八郎は、今の造幣局(学校の裏)のある所で生まれ、幼い頃の名前は文之助と言い、後に中斉(ちゅうさい)と名乗りました。
大塩平八郎は、有能な与力でしたが、38才という若さで引退し、自宅に陽明学を教える塾を開きました。これが造幣局の住宅地の中にある「洗心洞跡」としるされている所です。

歴史を訪ねて5

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滝川小学校をぐるっとまわってみました。学校の東側と北側には、とても立派な煉瓦の塀が残っています。造幣局ができたときの名残だと思います。戦火や幾たびの自然災害にも耐え、現存する赤レンガに歴史の重みを感じます。
学校の北には与力の役宅門があります。このあたりは、江戸時代には与力や同心たちの屋敷が立ち並んでいたそうです。だから、今でも「同心町」や「与力町」の地名が残っています。学校裏にある、この与力の役宅門は昭和23年に、ここに移されました。

歴史を訪ねて2

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明治5年8月北大組第4区小学校として旧滝川町(滝川公園北側)に開校したのが、本校の歴史の始まりです。天満組の惣会所のあった所に誕生し、建物もそのまま使用しました。初めは、4年制で、207人(男子121人、女子86人)が入学しました。明治9年9月 第4第1小区 滝川小学校と改称し、明治44年11月、川崎東照宮のあった現在地に移転しました。(本年で創立141周年を迎えます。)上の写真は、約170年ほど前の学校のあった場所の絵地図です。

歴史を訪ねて4(校章)

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滝川小学校の校章は、明治35年5月5日に、制定されました。
外側の上の部分が「タ」、下の部分が「キ」、中央の3本線が「川」と「小」をかねて図案化したものです。

歴史を訪ねて1

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正門横に、川崎東照宮跡という石碑が立っています。
1616に徳川家康が没すると、その子で江戸幕府2代将軍である秀忠は、家康を東照大権現という神様としてまつり、各地に東照宮という神社を建てることを命じました。
大阪には、翌年この滝川小学校の地に、当時の大阪城主である 松平忠明たちによって東照宮が建てられました。一説には豊臣氏をうやまう大阪の人々の思いを薄れさせるために建てられたとも言われています。
明治6年になって、川崎東照宮は廃されました。
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