給食 豚肉のカレー炒め スパゲテイサラダ 鶏肉のバーベキュソース焼き 粉ふき芋3年生校長面接始まりました。 (1月16日)あせらず、足元をしっかり踏みしめて、一歩 進んでいってください。 <中学校の一番印象に残っている事は> 修学旅行の民泊での思い出が 8割程度でした。 民泊の方との出会いや自然体験など 心のしっかり焼き付いているようでした。 また、なにげない休憩時間の友だちとの会話 合唱コンクールでの団結 体育大会での応援 2年生のときの遠足 卒業式 入学式の準備をして感じる事など 様々な思い出を聞かせてもらいました。明日は2組の皆さんです。 継がれるもの 阪神淡路大震災 22年 (1月16日)1995年1月17日 午前5時46分 大地が激しくゆれた。その約1時間半後、窓ガラスが割れた兵庫県尼崎市の病院で女の子が生まれました。父が着ていた革ジャンバーにくるまれて寒さをしのいだ女の子は、阪神淡路大震災の日に誕生日を重ねるうち、「人を『助ける側』になりたい」と願うようになった。神戸学院大学4年の今中麻里愛さんは来月、「あの日に生まれた自分にできること」を見つめに、海外の被災地を訪ねる。大きな揺れが襲った時、母は分娩室に行く前に待機する陣痛室にいた。ロッカーは倒れ、医師や助産師が見当たらない。分娩室も使えない中、午前7時12分、一人の看護師が麻里愛さんを取り上げてくれた。だが、体温を温めるものが周囲になかった。産湯も使えなかった。父が革ジャンを脱いで看護師に差し出した。 麻里愛さんは、子どものころの誕生日。テレビ番組は震災のニュース一色で、外では避難訓練が行われていた。家族はケーキで祝ってくれたが、複雑な気分になった。 成長するにつれて、あの日に生まれたことが特別な意味を持ち始めた。 「1月17日に生まれた、私にしかできないことがある。」と思うようになった。だが、阪神淡路大震災の記憶はないのに、テレビなどで流れる地震の揺れの映像や救急車のサイレンの音に恐怖を感じ、行動に移せなかった。「このまま逃げてはいけない」と四川大地震(中国)を訪ねることに。傷痕を残す建物を見て、体が震えた。しかし被災者と話すうちに気づいた。「震災が怖かったのではなく、被災地を直視できない自分の弱さに向き合うことが怖かったんだ。」来月、ネパール大地震の地へ赴く。丸3日かかる3000メートル級の山岳地帯で被災者支援の現場に触れる。働きながらボランテイアをしたいとの思いが強まっている。(毎日新聞 抜粋) 明日、1月17日 22年前の出来事を心にとめておいてください。 ヒアシンス 地域のかたへ電話連絡中 (1月13日)給食 1月13日 ビーフシチュー (1月13日)おいしくいただきました。 |