自分の学び理科の水蒸気や凍った時の様子、図画工作では彫刻刀を使った版画の様子など、子どもたちは学びを深めています。 マスクをしながらの授業ですが、一人一人が自分らしく学ぶ姿が見られました。 新型コロナウイルス感染症対策について(桜バージョン)本日、上記のお手紙を持ち帰っています。 みなさんご存知のように、「これからの1〜2週間が、急速な拡大に進むか収束かの瀬戸際」との政府見解がありました。 これを受けて、上記の内容を保護者や地域のみなさまと共有し、ご理解とご協力をお願いします。 また、「首相官邸」からの最新の対策が、下記アドレスから閲覧できますので、ご確認ください。 https://www.kantei.go.jp/jp/headline/kansensho/... 「自分の命は自分が守る」「となりの人の命を大切にする」 どうそよろしくお願いします。 明日の研修は中止とします。?令和2年2月25日(火)明日の研修中止のお知らせ 明日26日(水)実施予定のがんばる先生支援事業 「二瓶先生の講演研修」については、コロナウイルス感染症拡大を防ぐために、やむなく中止とさせていただきます。 ご参加予定のみなさまのご理解とご協力をよろしくお願いします。 馬鹿の意味?「みなさん!いきなりですが『バカ』という漢字わかりますか?何をいきなりと思われたかもしれませんが、しばらくお付き合いください。もちろんご存知ですよね。そう『馬鹿』と書きます。では、なぜ「馬」と「鹿」なのか?ご存知ですか?私は二度目の東京オリンピック・パラリンピックを体験しようとするこの歳まで知りませんでした。というか疑問にも持ちませんでした。実はつい先日にその意味を知り、心打たれた自分がいましたので、みなさんにお伝えしたいと思います。 これは漢字の発祥の地、中国でのお話です。紀元前221年、秦の始皇帝の手によって中国全土の統一が果たされ、始皇帝亡き後の二世皇帝の時代に「馬鹿」の故事が生まれたそうです。 始皇帝亡き後の秦王朝では、二世皇帝の後見人の立場にあった宦官である趙高(ちょうこう)が宮中において絶大なる権力を振るうようになり、自らの意見に逆らう者をことごとく処刑して排除していくという恐怖政治を敷いていくことになりました。 ある時、趙高は自らの権力の大きさを臣下たちに見せつけようとして、試みに二世皇帝の前に一匹の鹿を連れてきて献上して、「これは馬でございます」と言い放つことになります。二世皇帝は、これは何の冗談かと笑って、周りの臣下の者たちに、「これは鹿ではないのか?」と尋ねることになるのですが、これに対して、多くの人々は、趙高の権勢の大きさを恐れて、彼の意見に黙って従っていれば問題ないと考え、「いえ、馬に相違ありません」と答えて、その鹿は馬とされたまま皇帝へと献上されてしまうことになるのです。そして、このように、絶大な力を持った権力者を前にして、明らかな誤りであっても誰もそのことを正すことができない状態が続いていくことによって、秦王朝は政治の方向性を見誤ったまま没落の道を進んで行くことになります。 こうした古代中国の秦の時代を舞台とした馬鹿(バロク)の故事においては、権力を持つ者が自分が持つ力の大きさにおごり高ぶって、自らの言説や行動を一切かえりみずに、明らかに事実に反する主張であっても、事実の方を曲げて押し通そうとする権力者の傲慢な愚かさが示されていると同時に、さらには、そうした明らかな事実に反する主張を突きつけられても、そのまま自分より大きい力を持った強者へとこびを打って気に入られ、「自分の頭では深く考えずに、多数意見に常に迎合すること」を是とするという強者や多数意見に盲目的に従い、物事を自分の頭で考えて判断するという主体性を自ら放棄する人間の愚かさについても示されていると考えられることになります。 そして、こうした古代中国における馬鹿の故事における馬鹿の意味の解釈のあり方を踏まえると、馬鹿という言葉が持つ本当の意味は、単に頭が悪いとか無知であるといった意味だけではなく、「自分の頭で考えることをせずに、ただ、強い者の意見に従って、言いなりになってしまっている人間」、つまり、物事を自分の頭で考え、自らの心に従って主体的に生きることを放棄してしまっている人間の愚かさのことを指して、こうした言葉が用いられるようになっていったとも考えられることになるのです。 馬鹿にならず「自分で考え、自分から動く」主体的な生き方を大事にしましょう! 学びの専門家に!「子供たちは自分が教えられていると感じたら、何か新しいことを創造する代わりに、単に大人がやることを真似しがちになるのです」 これ、心理学者アリソン・ゴプニックの言葉です! 先日の佐藤学先生との学びでも同じようなことが話題になりました!それは、これからの教師は、 「教える専門家」から「学びの専門家」に変わらないといけないことです。 子どもたちの探究心をいかにして掻き立てるのか!そのためには教師は教えないのです!そのかわり、どう子どもの声を引き出すか!どう子どもと子どもをつなぐのか!どう子どもの考えをグループや教材に戻すのか!これを学ばない限り、21世紀の探究型の学びは創造できません! しゃべりすぎず、子どもたちの声や動きに敏感になり、ボソボソ話す教師を目指しませんか?廊下にまで大きな声が響き渡る授業より、子どもたちが笑顔でつぶやき合っている静かな授業を目指しませんか?新学習指導要領元年の今、これまでの自分、これからの自分を見つめ直す時です! |
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