令和2年12月12日(土)ホリデーコラム58
「勉強するのは何のため?(苫野一徳 著 日本評論社)」より、
「一般化のワナ」
教育をめぐって意見が対立する理由、それはまず何より、わたしたち全員が教育を受けた経験をもっているからです。
みんな教育に対して、なんらかのいいたいことをもっている。不満があれば、文句の一つもいってみたくなる。そしてみんながみんな、それをストーレトに主張し合うから、収拾がつかなくなってしまうのです。
これをわたしは、「一般化のワナ」と呼んでいます。一般化とは要するに、自分だけの限られた経験を、ほかの人にもあてはまるものとして考えてしまうことです。
たとえば、かつて受験エリートだった大人たちは、そんな自分の経験を一般化して、「勉強するのはいい大学に入っていい仕事につくためだ」と、自分の子どもにもいったりすることがあります。
一方、学歴を必要としない職業についた大人たちは、そんな自分の経験を一般化して、「学校の勉強なんて何の役にも立たない」というかもしれません。
でも、人それぞれ、受けてきた教育の経験も、そこから得たものも、役に立ったのも立たなかったものも、本当はみんな違っているのです。
だから、わたしたちが自分の経験を一般化していうことが、すべての人にあてはまるというわけではありません。「勉強は将来いい暮らしをするために必要なものだ」、と思う人もいれば、「学校の勉強なんて何の役にも立たない」と思う人もいる。どちらが正しいというわけでもないし、どちらかが絶対に間違っているというわけでもない。それだけのことなのです。
ここで大事なことは、人の考えを「寛容」に受けとめる力ではないでしょうか?そして、世の中にはいろんな考えの人がいて、それぞれに考えが違って当然で、それを受けとめた上で、じゃあ相手を尊重できるところがどこなのか?歩み寄れるところはどこなのか?を「対話」を通じて語り合うことではないでしょうか?
どちらかの「正解」を求めるのではなく、「納得解」を見つけることが、これからの「先の見えない、答えがひとつではない時代」には必要なことなのだと思います。