消えたわが母校1 〜西今里高等小学校〜
- 公開日
- 2017/08/06
- 更新日
- 2017/08/06
お知らせ
終戦記念日の8月15日が近づくと、戦後、消えた小学校のことを思います。
以前、教育委員会で学校の沿革を担当していた際に、ずいぶん多くの学校が戦後の学制変更や統廃合で消えてたことに気が付きました。
東成区でも西今里高等小学校と阪東高等小学校が戦後に廃校されています。
戦後70年以上が経ち、実際に通われていた方も少なくなっているかと思いますが、ご紹介をさせていただきます。この両校は現在の深江小学校の系譜にも関係しています。
【西今里高等小学校】
現在の本庄中学校が西今里高等小学校の跡地です。昭和16年10月30日に阪東高等小学校から独立して開校しました。正確に言えば、西今里国民学校高等科の単独の学校です。
児童数は男女合わせて2学年(現在の中学1年生と2年生)886人、19学級、教職員26名、校長には東淀川区の啓発小学校教頭の国井寛平氏が任命されました。
その年の12月8日に太平洋戦争が勃発し、学校のすべてが軍隊式に、校門には児童歩哨が立ち、運動場を練兵場としました。
昭和18年の2学期からは、130人あった少年飛行兵志望の児童から50名を選抜し、1学級を編成し「荒鷲学級」と呼びました。全員の志願兵合格を目指して特訓に次ぐ特訓で、新聞(読売報知新聞昭和19年2月1日)にも紹介されたほどです。海軍乙種飛行予科練習生の試験に荒鷲学級から33名の合格者を出しています。(大阪新聞昭和18年11月6日)
また、満蒙開拓少年義勇軍のために「興亜学級」を編成し、その後、30人あまりが満洲へ渡ったそうです。
昭和19年4月に西今里高等小学校は男子校となり、9月から勤労動員で軍需工場となりました。深江地区にあった日満工業や瓜生工業などの工場へ動員されたり、大阪市興亜柘植訓練道場に教職員、児童とともに寝泊りしたりして、あまり学校には行けなかったようです。
昭和20年6月15日東成区は米軍の空襲を受けましたが、西今里校は不発弾が落ちたために焼けなかったようです。昭和22年4月、教育改革で、前期中等教育の機会均等を保障するために新制中学校が生まれて、同年3月末に西今里国民学校は廃校となり、校舎は新設された東成第1中学校(現東陽中学校)が使用することになりました。
西今里小学校と阪東校から、新制中学校の2年生として300人あまりが、同じく3年生80人ほどが東成1中へ編入学しました。
東成1中は、昭和24年、東陽中学校と校名変更し、昭和26年に移転しました。そのあとの校舎に昭和26年7月26日に本庄中学校が入りました。
参考文献:「消えた我が母校(柘植書房)」