全校朝会 校長講話「4月12日は113回目の創立記念日」![]() ![]() ![]() ![]() 九条南小学校は、明治35年(1902年)4月12日、九條第2尋常高等小学校として誕生しました。この年の学級数は、11クラス、児童数571名、教職員は17名でした。その当時、本校は女子だけの学校でした。昭和5年(1930年)4月、学校の名前が、大阪市九條第2尋常小学校になり、この時から男女共学の学校になりました。戦時中昭和16年4月に学校名が大阪市九條国民学校に変わりました。このような中で、昭和18年(1943年)、校庭にタイル張りのプールができました。小学校にプールのない時代でしたから、他校の児童が泳ぎにきていたそうです。 そして、戦争がはげしくなってきた昭和19年(1944年)には、2年生以上の160名の児童が島根県に学童疎開をしました。 わかたけ18号に掲載された昭和21年卒業生の「集団疎開の思い出」を紹介します。 本校の5年生であった私が、級友達と島根県に集団疎開したのは、敗色が見えはじめた昭和19年9月のことである。 蚤にさされ、食糧不足に悩まされた毎日。遠く聞こえる汽笛に流した涙。線路づたいに大阪へ帰ろうとした友を提灯をともして探した夜。雪深い中での野菜運びや小さな肩に食い込んだ薪、畑の草取り、風呂の水くみ当番、飢えをしのぐためにかじったお芋、拾った椎の実。手紙が来なくてべそをかいたり、親と去っていく級友を見送ったりした日。 昭和20年(1945年)になるとアメリカ軍の空襲がはげしくなり、3月の大阪大空襲では、学校の理科室と工作室が焼け、講堂も焼夷弾を受けています。2年後の昭和22年(1947年)4月、校名が、現在の大阪市立九条南小学校になりました。 当時のことを石谷九条南連合振興町会長が、この110周年の記念誌に次のように書いておられます。 明治・大正・昭和、そして平成と4代にわたり、激動期を地域とともに歩み、めでたく110周年を迎えるにいたりました。<中略>大阪大空襲により、わが郷土・九条南は、町の大半が焦土と化して、見渡す限り、一面の焼け野原となりました。そのような中、悠然とそびえ建っている九条南小学校を眺めて、当時の多くの人々は、一日でも早く子どもたちが安心して学べる学校の再建を願いました。当時の教職員、保護者、地域の方々は、困難な時こそ、子どもの教育が大切と考え、戦後復興と学校の再建をめざして一体となって勇気と気力をふりしぼって、邁進されました。素直で明るく健やかな子どもを育てている今日の素晴らしい校風は、この苦労が育んできたと言っても過言ではありません。 <後略> この地域の人々が、九条南小学校のことをどれたけ大切に思い、生きてこられたか、みなさんには、よく分かると思います。 昨日113歳を迎えた九条南小学校の歴史についてお話をしました。 もっとくわしい内容を知りたいと思う人は、図書室に110周年の記念誌と創立110周年記念読本「ふるさと九条南」を本棚に並べておきますので、ぜひ読んでみてください。 |
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