〜ようこそ墨江丘中学校ホームページへ〜  「いのち」をテーマに自分の「いのち」周りの人の「いのち」を大切に、輝かせ続ける学校目指して教育活動をしています。

今日の風景5/16 −定例「全校集会」がありました。

毎週月曜日の「全校集会」です。

今日は晴れ渡った空、グランドで行われました。

今週は、木曜日から、3年生の修学旅行が始まります。
そういう意味でも大事な集会となりました。
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地域紹介「紀州街道」4 安立町から大和川へ

安立町を過ぎて、街道は大和川に向かいます。

ここには「大和橋」が、懸かっていますが、昔は、この橋が唯一、堺へ渡る橋だったそうです。

街道は、この後、堺市に入って行きます。


*資料から
大和橋は宝永元年(1704)の大和川付け替えに伴い新設されたもの。ここは紀州街道の堺への入り口にあたる交通の要所(公儀橋)であった。

⇒ http://www.ab.auone-net.jp/~osaka565/pic089.jpg
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地域紹介「紀州街道」3 霰(あられ)松原付近

紀州街道沿いの、本校最寄駅「安立町」の西側に霰(あられ)松原公園があります。

ここは、昔、白砂青松の松林が続く海岸で、

「霰打つ―住吉(すみのえ)の弟日娘(おとひをとめ)と見れど飽かぬかも(あられ松原は、住吉の弟日娘と一緒に見て、見飽きることがない)」

と万葉集にも歌われた景勝地でした。

現在は、公園になっていて、その歌碑が建っています。

*住之江区役所資料から

【場所】安立2-11
【交通】阪堺線「安立町」下車南西約100m

 この付近は江戸時代中期まで、海岸線であった。そして白砂青松の名勝地で、松風が霰(あられ)を吹きつけるように響いたのでこの名があるという。その有様は万葉集にも収録されているが、江戸時代に入って大和川付け替え工事などで、海岸線が移動し景観が一変してしまった。
 碑の前の道は紀州街道で、高麗橋東詰の里程元標を起点に、堺筋を南下和歌山に至っている。
 この付近は街道の面影をよく残しており、新しく街道名の入った道しるべが建てられるなど、歴史の顕彰が行われている。
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地域(校区)紹介「紀州街道」2 長峡(ながお)町〜安立(あんりゅう)町へ

紀州街道で住吉大社を過ぎますと、「お祓(はら)い橋」にさしかかります。
この橋の袂(たもと)にも、紀州街道の歴史が記されています。

そして、安立町(住之江区)になって行きます。
この辺りの家屋も街道の雰囲気が漂っています。

本校の最寄りの駅の一つが、この阪堺線「安立町」です。
ここがちょうど、住吉区と住之江区の境界にもなっています。

なんでも、昔、江戸時代に「半井安立軒元成(なからい・あんりゅうけん・もとなり)」という、名医が住んでいたことに因むといわれています。
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地域(校区)紹介「紀州街道」1 住吉大社・長峡(ながお)町付近

本校校区を走ります、二つ目の街道は「紀州街道」です。

大阪北浜の高麗橋から和歌山へ向かう、海岸沿いの街道です。
資料を見ますと、この街道を使い、豊臣秀吉が休んだことから、天下茶屋という地名もあるそうです。

本校校区では、住吉大社の前、長峡町を通り、安立(あんりゅう)町へ道はつながっていきます。

この住吉大社のすぐ前が、海岸であったことは、また住吉大社のこととともに詳しくお伝えしたいと思います。


資料より『紀州街道』

堺市を貫き、大阪と和歌山をつないだ街道です。古くは、大阪湾岸の集落をつなぐ生活道路として存在していました。公用の街道となったのは近世中期ですが、大阪〜堺間は豊臣秀吉が大阪城に進出した頃から主要往還道として使われていたと言われています。
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