戦後70年平和人権登校日(1)
本日は、全校登校日です。
本校では、毎年平和人権登校日 として8月6日に全校登校日を 設定しています。 今年は、戦後70年の節目として、 例年行っている3年生の 長崎修学旅行での学習内容発表 (自然文化体験・平和学習等)の報告会と <a href=" 本日は、全校登校日です。 本校では、毎年平和人権登校日 として8月6日に全校登校日を 設定しています。 今年は、戦後70年の節目として、 例年行っている3年生の 長崎修学旅行での学習内容発表 (自然文化体験・平和学習等)の報告会と <swa:ContentLink type="doc" item="41155">「大阪大空襲の事実を知る」</swa:ContentLink>と題して 大阪戦災障害者・遺族の会の 伊賀孝子さんにお越しいただき ご講演をいただきました。 戦後70年平和人権登校日(2)別紙を参考に、本日の事前学習を行いました。 次に講堂へ移動し 多賀先生の司会のもと 集会が始まりました。 まず多賀先生から、本日の集会の 意義や流れについて再度確認があり まず、校長先生からのお話です。 今日は、8月6日。今からちょうど 70年前の1945年8月6日 午前8時15分にアメリカの B29爆撃機「エノラ・ゲイ」号から 投下された原子爆弾によって、 当時の広島市の人口約35万人中 約半数の16万6千人が 4ヶ月以内に亡くなりました。 また、8月9日は、長崎への 原子爆弾投下がありこちらも 多くの方がなくなりました。 長崎の原爆投下のお話はこの後、 修学旅行の報告がありますので割愛します。 1941年12月8日、日本は、 ハワイ真珠湾に総攻撃を行い、 アメリカを中心とする連合国と 太平洋戦争を始め、1945年8月15日に 世界中で多くの犠牲者を出して 終戦を迎えました。 さて、戦争は広島・長崎だけでなく、 この大阪でも、難波でも住吉でも 爆撃の被害があったのです。 戦争によって、みなさんや身近な人が なくなってしまうのです。 3年生の報告の後住吉区在住の 伊賀孝子さんから実体験を お話していただきます。 戦争は人類最大の人権侵害です。 それを美化することは許されません。 日本人だけでなく、アジアの諸国の 人たちが、その犠牲になり、 多くの尊い命が失われました。 今なおその傷はいえていません。 今の日本は平和です。 しかし、世界中どこかで同じような 戦争が起こり、君たちと同じ年頃の子が 犠牲になり、また銃を持ち、 戦場に立っています。 先生も戦後生まれで戦争は知りません。 でも、これだけはいえると思います。 平和はありがたい。 尊い命が失われる戦争、 人権を踏みにじる行為は許せる ことではありません。 今爆撃の心配はありません、 だからこそ、この平和な社会を守るために、 平和な日本だから、唯一の被爆国 だからこそ、日本人が声を大にして、 平和のありがたさを、 訴えなければなりません。 君たちはどう思いますか。 先生は、君たちの中で一人として、 大切な命を失ってほしくありません。 戦場に行ってほしくありません。 命を奪う人になってほしくありません。 この機会に人権と平和について 先生も考えます。 君たちもしっかり考えてください。 とのお話でした。 戦後70年平和人権登校日(3)スライドを映しながら代表者の人が パートごとに話をしてくれました。 ペーロン大会の事 平和セレモニーの事 原爆資料館の事 中村さんを招いての聞き取り学習会の事 長崎フィールドワークの事 龍踊り体験の事等 そして最後に、平和に対して 人権に対しての熱い思いが語られました。 戦後70年平和人権登校日(4)ご講演頂きました。 戦後70年で昨日も大阪市と府の 合同の催しに出席され、お疲れの中を 地元の中学校のためにと ご熱演くださいました。 戦後70年平和人権登校日(5)中よりお話を始められました。 大阪は約50回の空襲を受け そのうちB29爆撃機が100機以上 飛んできた時を大空襲と言います。 その大空襲が8回ありました。 大阪では約1万5千人の方が 亡くなったと言われています。 兄が戦地に行ったり、 周りの方がなくなったり、 だんだんと物がなくなり、配給になり 生活が苦しくなってきていたとはいえ 子どもの自分に戦争が直接 かかわってくるとは思っていなかった。 女学校(現在に中学校)2年生の 1945年3月13日の夜半から 14日未明までの話です。 浪速区で、空襲にあい焼夷弾の 直撃を受け、母はその場で即死、 小学校1年生の弟は16日早朝に死亡、 父とご本人は大きなやけど等で負傷、 その空襲の様子と逃げ惑う様子 混乱の様子やその後のあった 大空襲の体験談をお話しくださいました。 |