戦後70年平和人権登校日(4)ご講演頂きました。 戦後70年で昨日も大阪市と府の 合同の催しに出席され、お疲れの中を 地元の中学校のためにと ご熱演くださいました。 戦後70年平和人権登校日(5)中よりお話を始められました。 大阪は約50回の空襲を受け そのうちB29爆撃機が100機以上 飛んできた時を大空襲と言います。 その大空襲が8回ありました。 大阪では約1万5千人の方が 亡くなったと言われています。 兄が戦地に行ったり、 周りの方がなくなったり、 だんだんと物がなくなり、配給になり 生活が苦しくなってきていたとはいえ 子どもの自分に戦争が直接 かかわってくるとは思っていなかった。 女学校(現在に中学校)2年生の 1945年3月13日の夜半から 14日未明までの話です。 浪速区で、空襲にあい焼夷弾の 直撃を受け、母はその場で即死、 小学校1年生の弟は16日早朝に死亡、 父とご本人は大きなやけど等で負傷、 その空襲の様子と逃げ惑う様子 混乱の様子やその後のあった 大空襲の体験談をお話しくださいました。 戦後70年平和人権登校日(6)娘さんが高等学校に入学されるのを機会に 夜間中学校、定時制高等学校と 7年間通学されました。 また、住吉中学校の敷地内に在った 高射砲の話しや近隣の焼夷弾や 爆撃の被害のお話もされました。 最後に 戦争は絶対してはいけない。 勝とうが負けようが、家族にとってどうなのか。 同じ震源として、どうなのか。 今のこの時期にしっかりと勉強してほしい。 年を取って勉強しようとしてもなかなか入らない。 色々な知識を身に着け判断できる人になってほしい。 とのメッセージで締めくくられました。 生徒のみんなさんにも、心打たれるところがあり 大きな拍手の中で、ご退出いただきました。 次に校長先生より、1年生所属社会科の 加藤先生の代わりに来ていただく <a href=" その後、終戦後に住吉に移られ 娘さんが高等学校に入学されるのを機会に 夜間中学校、定時制高等学校と 7年間通学されました。 また、住吉中学校の敷地内に在った 高射砲の話しや近隣の焼夷弾や 爆撃の被害のお話もされました。 最後に 戦争は絶対してはいけない。 勝とうが負けようが、家族にとってどうなのか。 同じ震源として、どうなのか。 今のこの時期にしっかりと勉強してほしい。 年を取って勉強しようとしてもなかなか入らない。 色々な知識を身に着け判断できる人になってほしい。 とのメッセージで締めくくられました。 生徒のみんなさんにも、心打たれるところがあり 大きな拍手の中で、ご退出いただきました。 次に校長先生より、1年生所属社会科の 加藤先生の代わりに来ていただく <swa:ContentLink type="doc" item="41154">森口翔太先生の紹介</swa:ContentLink>があり 森口先生よりごあいさつがあり 集会は終わりました。 戦後70年平和人権登校日(7)感想や伊賀さんへの質問などを書いて 本日の全校登校日は終わりました。 夏真っ盛り!部活動真っ盛り!8.4(1)
本日も朝から強い日差しの
照りつける中 部活度が、行われています。 |