今日の授業風景
今日は、保健体育科、音楽科で電子黒板やプロジェクタを利用し、自分の集団行動の様子やプロのオーケストラの演奏の動画を見せながらの授業を行なっていました。やはり、みんな食い入るように見つめていました。
本日の献立/6月7日(火)・豚肉と野菜の煮もの ・きゅうりのおかかあえ ・ひじきと大豆の煮もの ・ごはん、牛乳 栄養価 エネルギー 775kcal、たんぱく質 39.7g、脂質 19.4g ☆大豆(だいず)☆ 大豆は、中国ではおよそ5000年前から栽培されていたと見られ、原産地も中国であると考えられています。日本へは、遺跡からの出土もあり、縄文時代後期に伝わったと考えられています。本来、冷涼な土地を好む作物なので、70年くらい前までは、中国や日本などのアジアの限られた地域で栽培されていました。しかし、1896年にアメリカの農務省が大豆の試作をはじめ、機械化農業に対応する品種を選ぶとともに育成し、1940年代になって大規模な栽培が始まって以来、熱帯地域でも盛んに栽培されるようになりました。現在ではアメリカは、世界の生産量の30%以上を占め、第1位の生産国となり、次いでブラジル、アルゼンチンなどが主要生産国となっています。逆に日本での生産は激減し、農水省によると、2013年(平成25)での自給率は6%となっています。 世界での大豆の利用は、大部分が油用で、食用油やマーガリンなどの原料だけでなく、塗料の原料にもなります。油をとった後の大豆粕は、飼料や肥料として使われます。日本では、油としての利用は80%程度で、食品としての利用が20%程度になります。 大豆の種子はそのままでは、かたくて食べにくいので、水で戻して煮るだけでなく、古くからいろいろな加工法が考え出され、豆乳、豆腐、うす揚げ、厚揚げ、高野どうふ、湯葉、納豆、みそ、しょうゆなど日本の食卓には欠かせない食品となっています。 昔から畑の肉といわれるように、栄養も豊富で、良質のたんぱく質を多く含み、カルシウムや鉄、食物繊維なども多く含みます。その他、老化を防ぐビタミンEや、抗酸化作用により動脈硬化を防ぐといわれる大豆サポニン、更年期障害を改善するといわれる大豆イソフラボンなどの効果も期待されています。 今日の給食では、家庭料理として、昔から定番のひじきとの煮ものにしています。 ※明日(6/8)は、チキンカレーライスがありますので、スプーンのご用意をよろしくお願いします。 全校集会を行いました
6月7日(火)朝、全校集会を行いました。
大阪市春季総合体育大会で女子総合優勝した少林寺拳法部の表彰が行われました。 校長先生からは、「6月に入り、学級や部活動において友だちや仲間の間で人間関係においてトラブルが起きる頃ではありますが、入学式の時にみなさんにお話をした話をします。経済同友会が今、求められる人物として次の3点を紹介しています。中学生のみんなが学校生活で学んでいく内容だと思います。その3点は、 一つめは、変化の激しい社会で、課題を見出し、チームで協力して解決する力 二つめは、困難から逃げずにそれに向き合い、乗り越える力 三つめは、価値観の異なる相手とも双方向で真摯に学び合う力 です。特にこの三つ目について、私たちはとかく、「自分は正しい、相手が間違っている」と思いがちになるが、「まちがい」の「ま」を抜いて「ちがい」を認め、協力し合える関係を築いてください。とお話されました。 6月2日〜8日は、教育相談期間中です。悩み等がありましたら、担任の先生とじっくり話をして前向きに学校生活が送れるようにしてください。今週も元気に頑張りましょう。 放課後自習室 OPENしました!
6月6日(月)中野中学・学力向上支援策として、【放課後自習室】がOPENしました。放課後自習室は、原則平日の放課後、図書室で自習ができるようになっており、黒田先生や、学びサポーターさんが常駐し、分からないところを教えてもらえるようになっています。出入りは自由なので、気軽にご利用ください。
本日の献立/6月6日(月)・いわしてんぷら ・キャベツのごまあえ ・のりの佃煮 ・みそ汁 ・ごはん、牛乳 栄養価 エネルギー 857kcal、たんぱく質 34.6g、脂質 27.3g ☆佃煮(つくだに)☆ 佃煮は、日本の代表的な保存食品で、おもに小型の魚介類、海藻類を原材料として、砂糖、みりん、しょうゆなどを加えて煮詰めたものです。原料に含まれる水分と調味液が入れ替わることで、細菌などの繁殖が抑えられ、長期保存が可能になります。東京の佃島が有名であるため、その土地のものと思われがちですが、もともとは大阪が発祥の地とされています。 天正10年6月2日(1582年6月21日)、「本能寺の変」を知った徳川家康は、わずかな手勢とともに大阪の堺にいましたが、自分たちにも危険が及ぶことを察知し、すぐに岡崎(現在の愛知県岡崎市)に帰ろうとしました。しかし、京都は明智勢、奈良街道は筒井勢に押えられ、陸路はふさがれた状態だったため、海路脱出を図り、神崎川を渡ろうとしましたが、船がなく、足どめを食らいました。そこで側近として仕えていた伊賀忍者の服部半蔵は機転を利かせ、近くにある佃村(現在の西淀川区佃)の庄屋・森孫右衛門をはじめとする漁師たちに応援を求めたところ、漁師たちは快く引き受け、家康たちを紀伊半島へと送り届けてくれました。さらに、家康たちは、帰るまでの道中食として保存のきく、小魚を味つけして煮詰めたものを漁師たちからもらいうけました。無事帰り着いた家康は、その後、天下を治めましたが、佃村の漁師たちへの信頼は言うまでもなく、森孫右衛門と漁師たちを御肴役(おさかなやく)として呼び寄せました。そして、三代将軍家光のとき、漁師たちに現在の佃島を生活の地として与えました。漁師たちは、獲った魚を江戸幕府に献上しながら、江戸市民に売るとともに、雑魚の醤油炊きをつくりはじめました。これが、諸国の大名や庶民にも広まり、「佃煮」として全国に広まりました。 このようなことから、佃煮は、本能寺の変がもたらした食品といえるかもしれません。 今日の給食では、かつお節、しいたけ、きざみのりをしょうゆ、みりん、砂糖で煮詰めて佃煮にしています。 |