卓球部も始動昭和のひがしなり
昭和初期の東成区は、現在の生野・旭・城東・鶴見の4区をも含む広大な区域を有し、人口も33万人を数える大区となり、区政は繁雑を極め、そのため昭和7年「旭区」が、同18年「生野区」「城東区」が分区独立しました。昭和という時代は、大阪市が飛躍的発展した時期です。
大阪城の再建・御堂筋および地下鉄の開通など近代都市の機能の充実がなされ、日本の代表的一大商業都市へと発展しました。このような大阪市の発展に伴い昭和2年、市電(路面電車)が下味原(天王寺区)から今里まで延長開通し、城東線も高架化・電化がされ、同8年には「森の宮」「鶴橋」の開業と共に区民の移動は飛躍的に便利になりました。小学校も、東小橋・今里・東中本・深江・片江と次々に新設され、戦後の宝栄小学校新設により今日の11校となりました。 しかし、昭和9年の室戸台風は東成区の各小学校の校舎に甚大な被害をもたらし、教員、児童等多くの犠牲者をだすなど悲惨な爪痕を残しましたが、これを機に校舎の鉄筋化がはかられました。昭和20年3月の大阪大空襲、同年6月の空襲では当区の西部を中心に約6,400の全焼家屋と約20,700人の罹災者をだしました。8月14日大阪砲兵工廠を中心とした大空襲の余波を受け「森の宮」駅周辺も甚大な被害を蒙り、第2次世界大戦は終結をすることとなりました。 大阪市ホームページより http://www.city.osaka.lg.jp/higashinari/page/00... 8月12日(金)たそがれコンサート新しい出会いや発見があり、思い出深い一日になりました。 野球部5B合同審判講習会いつもとは違い、審判としての目線で野球に取り組み、よりプレイの幅が広がってくれたのではないでしょうか。 「なにわの伝統野菜」
先日、東成区花と緑のまちづくり推進会主催の、玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり)品評会にて賞状を頂きましたが、玉造黒門越瓜についてご説明します。
豊臣時代、大坂城玉造門のあったところを黒門町(門が黒塗りであった)といい、近くを流れていた猫間川に架かっていた橋を黒門橋と言われていました。この黒門付近が黒門越瓜の発祥地であり、天保7年(1836年)の「名物名産略記」に記載があり当時の今里・片江・深江辺りでも栽培されていたそうです。 各区で伝統野菜を栽培し、古き良き伝統を大切にしていこうという活動です。 「なにわ伝統野菜」について詳しくは大阪府ホームページを下のURLからご覧ください。 http://www.pref.osaka.lg.jp/nosei/naniwanonousa... |