【学校教育目標】『心豊かに力強く生きぬく子どもの育成』〜夢や志を持ち、一人ひとりが輝く学校〜をめざして! 

5月11日(木) 3・4年「トップアスリート特別授業」

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 3・4年生に陸上競技のトップアスリートの荒川先生から特別授業をしていただきました。夢を持つ続けることの大切さや、その夢に向かって一生懸命に頑張り続ける自分を支えてくれる人への感謝の気持ちを持つことなどお話をいただきました。一つの夢がだめでも、他に夢を見つけるなど、夢を持ち続けることが大事なことだとお話をされました。
 そのあと、簡単な基本運動を指導いただきました。(日本選手権優勝のメダルを実際に触らせていただきました。重たかったですね。)

大阪市・プログラミング教育推進事業

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 文部科学省のプログラミング教育の在り方(取りまとめ)に基づき、平成29年度大阪市・プログラミング教育推進事業に本校は取り組んでいます。小学校段階ではコーディング(プログラミング言語の取得)を学ぶのではなく、「プログラミング的思考(論理的思考力)」を身につけることが目的です。
 本校で第1回目の授業の様子ですが、プログラムすることでヘリコプターが動き出したり、猫が動いたりました。
 このような体験活動をとおして、深江小学校の児童が自らの将来を幅広く描けるようになればと思っています。(学校長)

2年 ゲストティーチャー特別授業 「走り方」

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 1年生に続いて、2年生が「陸上走り幅跳び」のトップアスリートの荒川大輔先生より「走り方」の基本となる運動の授業を受けました、「夢や目標」を持つことの大切さや、それに向って努力することの大切さ、支えてくれる人や仲間を大切することで自分の夢や目標に近づくことになるというお話をいただきました。また、人から大切に思われるためには、自分も人を大切にしましょうとお話をされました。
 続いて、実技指導があり、実際の授業にも活用できるように担任の先生も熱心にメモをとったり、DVDを撮影したりしていました。

消えたわが母校2 〜阪東高等小学校〜

「西今里小学校」に続いて「阪東小学校」です。これも、深江小学校の系譜に関係の大きい学校です。

【阪東高等小学校】東成区の高等小学校
 高等小学校を知る人はもはや少ないと思います。昭和22年に現行の中学校制ができるまでは、現在の中1、中2の教育を担当した小学校です。
小学校6年を卒業後に、中学校や高等女学校に進学しなかった児童を受け入れました。当時は義務制ではなかったため、多くの子どもたちはここに入学をしました。
 阪東高等小学校は昭和6年4月の開校で、東成区の学童を教育する学校で、商業、工業に力を入れました。
 同校が開校されるまで、現東成区の高等科の子どもたちは中本尋常高等小学校、神路尋常高等小学校、大成尋常高等小学校に通学していました。
 阪東高等小学校ができると、中本第2・第4、今里、東小橋、新しく開校した深江、東中本、片江の各尋常小学校からも阪東高等小学校へ進学してくるようになり、児童数は昭和14年には2000人を超えました。教室に不足が生じたため、分校が設けられ、一つは中本小学校の近くの八王子神社の境内、もう一つは現在の緑橋交差点のあたりにありました。
 昭和15年には阪東校から、9人の満蒙開拓義勇軍への志願者があり、全校児童から激励を受け、満洲へ行くために茨城県の内原訓練所へ出発して行ったたそうです。
 昭和19年、東成区の高等小学校(当時国民学校)は通学区の変更を行いました。先に書いた西今里高等小学校(国民学校)を男子専用の学校とし、阪東高等小学校を女子専用としました。阪東高等小学校(国民学校)は昭和20年6月15日の空襲ですべては焼け落ち、廃墟となりました。
 阪東、西今里両校は、新学制の発足をひかえて、昭和22年3月末をもって休校となりました。跡地は東陽中学校(当時、東成1中)が使用し、東陽中学校が移転後は、大阪市立西今里中学校(本庄中学校分校)が使用し、現在は中大阪朝鮮初中級学校となっています。

参考文献:「消えた我が母校(柘植書房)」の中から、俳優の故金田龍之介氏(北都島小学校、昭和16年卒業)の言葉を紹介いさせていただきます。
 『私には母校がない、空襲で焼けてしまったのである。しかし、夢の中ではいつも、少年の日の私がいる。教室や廊下を走り回っている姿、懐かしい校舎の姿、友達の顔も見える。消えた我が母校への私の思いは募るばかりである。「もう40年も50年も同窓の友に会っていない。会いたいといつも思う。」同世代の友人たちの思いも同じである。そんな思いを受けとめ、こつこつと足で探し求めて消えた学校を復元してくださっている研究者がいる。ありがたいことである。そしてこの本にまとまった。ぜひ、手にとって、子どもの頃のあなたへ帰ってください。』

消えたわが母校1 〜西今里高等小学校〜

 終戦記念日の8月15日が近づくと、戦後、消えた小学校のことを思います。
 以前、教育委員会で学校の沿革を担当していた際に、ずいぶん多くの学校が戦後の学制変更や統廃合で消えてたことに気が付きました。
 東成区でも西今里高等小学校と阪東高等小学校が戦後に廃校されています。
 戦後70年以上が経ち、実際に通われていた方も少なくなっているかと思いますが、ご紹介をさせていただきます。この両校は現在の深江小学校の系譜にも関係しています。

【西今里高等小学校】
 現在の本庄中学校が西今里高等小学校の跡地です。昭和16年10月30日に阪東高等小学校から独立して開校しました。正確に言えば、西今里国民学校高等科の単独の学校です。
 児童数は男女合わせて2学年(現在の中学1年生と2年生)886人、19学級、教職員26名、校長には東淀川区の啓発小学校教頭の国井寛平氏が任命されました。
 その年の12月8日に太平洋戦争が勃発し、学校のすべてが軍隊式に、校門には児童歩哨が立ち、運動場を練兵場としました。
 昭和18年の2学期からは、130人あった少年飛行兵志望の児童から50名を選抜し、1学級を編成し「荒鷲学級」と呼びました。全員の志願兵合格を目指して特訓に次ぐ特訓で、新聞(読売報知新聞昭和19年2月1日)にも紹介されたほどです。海軍乙種飛行予科練習生の試験に荒鷲学級から33名の合格者を出しています。(大阪新聞昭和18年11月6日)
 また、満蒙開拓少年義勇軍のために「興亜学級」を編成し、その後、30人あまりが満洲へ渡ったそうです。
 昭和19年4月に西今里高等小学校は男子校となり、9月から勤労動員で軍需工場となりました。深江地区にあった日満工業や瓜生工業などの工場へ動員されたり、大阪市興亜柘植訓練道場に教職員、児童とともに寝泊りしたりして、あまり学校には行けなかったようです。
 昭和20年6月15日東成区は米軍の空襲を受けましたが、西今里校は不発弾が落ちたために焼けなかったようです。昭和22年4月、教育改革で、前期中等教育の機会均等を保障するために新制中学校が生まれて、同年3月末に西今里国民学校は廃校となり、校舎は新設された東成第1中学校(現東陽中学校)が使用することになりました。
西今里小学校と阪東校から、新制中学校の2年生として300人あまりが、同じく3年生80人ほどが東成1中へ編入学しました。
 東成1中は、昭和24年、東陽中学校と校名変更し、昭和26年に移転しました。そのあとの校舎に昭和26年7月26日に本庄中学校が入りました。
 
参考文献:「消えた我が母校(柘植書房)」

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