6年 思い出作文
戦争を乗り越えた人々
6年 田島 心美 私は、ピース大阪に行って印象に残ったことがいくつかあります。そのなかでも、一番印象に残ったことは、戦争を生きた人たちの声です。 ある人は、 「闇市に食材などを取られて、今まで食べることができていた物が、食べられなくなった」 と言っていました。また、ある人は、 「戦争でなくなった人がトラックに積まれて、運ばれていった」 と、言っていました。私たちが普段食べている肉や魚などが食べられなくなってしまう。私たちの家族が、戦争に行って戦って、死んでしまったら、無造作にトラックに積まれ、そのままどこかに捨てられてしまう。 がまんできるでしょうか。想像しただけで、苦しくなるのではないでしょうか。 私は、想像したくもないほど胸が痛くなります。それが、戦争というものです。 ですが、そんな時代の中、たくさんの悲しいこと、苦しいことを乗り越えた人々がいます。私は、この見学を通して、これからも、戦争がどれだけ悲痛なことかを、これからの人に伝えていきたいと思いました。そして、平和な世界になることを望みます。 5年 思い出作文
水と向きあう
5年 羽鳥 香花 私が3学期で一番心に残ったのは、総合で淀川や水を調べたことです。 今年の総合は、今までよりもっと深く考えることができたと思います。最初は、ほぼ淀川について何も知らなかったのに、いろんなところへ行って知ることが増え、増える分だけ、新しく知りたいことが出てきます。私は、総合の時間を毎回楽しみにしています。 先生が、 「日本は、節水する必要がありますか。」 と、総合の時間に聞いてきました。 「ほんとだ。あるかな。」 という声も聞こえてきましたが、私は、あると思います。日本は水に困っていませんが、あまっているわけではありません。地球にある水の量も限られています。(日本は、大丈夫)と思って、水をむだづかいすると、これから何か影響があるかもしれません。 水に困っていない国に生まれたことをうれしく思いますが、そうだからこそ、できることはしたい、と思います。 4年 思い出作文
かけがえのない命を救った人
4年 別宮 光 ぼくは、中甚平衛(なか じんべえ)という人をとてもそんけいしています。 甚平衛さんを知ったのは、4年の社会の授業でした。甚平衛さんは、大和側のつけかえ工事を行った人です。 今から300年以上も前のこと、昔の大和側は今のようにまっすぐな川ではなく、曲がりくねっていました。流れてきた土屋砂が川底にたまって、雨がふるたびにこう水が起きました。 家や田畑は流され、病気がはやり、多くの人々が命を落としました。ですが、甚平衛さんは、長くから人々を苦しめたこう水に立ち向かうために、幕府という当時の役所に付け替え工事をうったえ続けて、およそ50年後にとうとう幕府が工事をみとめました。そして、つけかえ工事によって、多くの人の命が救われました。 そんな甚平衛さんを尊敬しています。 3年 思い出作文
総合の学習の発表
3年 江口 結岳 ぼくは、5時間目のさんかんんで総合の発表をしました。ぼくは、「じゃぱん」というパン屋さんのことを発表しました。ぼくは、「じゃぱん」の名前の由来と行きたかった理由を言いました。由来は、みんながおぼえやすいからだと言っていました。 5時間目のチャイムがなりました。ぼくは、すごくきんちょうしました。個コロンボ中で、 (せいこうしたらいいな。) と、心ぱいしていました。つくえの前にお母さんたちが来ると、みんなで「じゃぱん」の発表を始めました。ぼくは、きんちょうしてあまり声がでませんでした。1回目の発表が終わると、みんなが、はく手してくれたので、すごくうれしかったです。 「じゃぱん」のお店へ行ったことを思い出して発表すると、なんだか店長さんがおうえんしてくれているような気がしました。30分後、発表するのが楽しくなりました。もっと、いい発表をしたかったけど、時間になりました。感想の書いてあるふせんが たくさん集まりました。すごくうれしかったです。 ぼくは、さぎすの町のいいところをいっぱい知って、いろいろな人に発表して聞いてもらいたいです。 2年 思い出作文
さんかん日の思い出
2年 ふじ川 心な わたしは、2年生さい後のさんかん日が 一番心にのこっています。 生活科で自分のせい長を はっぴょうしました。1年生の時よりれんしゅうして、字がきれいになったので、そのことをはっぴょうしようと思いました。わたしは、前に出てはっぴょうすることが にが手で、すごく きんちょうしました。けれど、本番は、れんしゅうよりも大きな声が出せました。とてもうれしかったです。「心」という字をみんなの前で書きました。友だちがほめてくれたので、楽しかったです。 わたしは、これからも大きな声を出して はっぴょうできるように がんばりたいです。 |