学校日記

8月5日(火)80年前の写真が卒業生から届きました!

公開日
2025/08/05
更新日
2025/08/05

学校日記

先日、卒業生の和田 悦子さん(旧姓)から、お電話がありました。

「戦後80年を迎え、学童疎開をしていた頃の写真を、日吉小学校の資料として寄贈したいです。また、できましたら今の子どもたちに伝えてほしいです。直接写真をお届けしたいのですが、体調により難しいので郵送させていただきます。」とのことで、お写真とお便りを送付していただきました。

和田さんに確認したところ、子どもたちへの紹介や、このHPに掲載することを快くご承諾いただきましたので、お便りをもとに紹介をさせていただくことにしました。

【和田 悦子さんのお手紙より】
この写真は、島根県邑智郡都賀村にあった大阪市立日吉国民学校学童疎開寮の本部があった西円寺に、終戦直後の昭和20年9月22日、先生、寮母さん、学童が集まった時に撮影された一枚の写真です。

この写真をもとに80年前を思い出しながら綴ります。

学童疎開へと出発したのは昭和19年9月です。4〜6年生が島根県簸川郡神門町に向かいました。寮生活での寝泊まりは教室ごとに町会別に分かれ、授業は学年別に分かれて教室で勉強しました。

その後、昭和20年のお正月は地元の民家で過ごし、親元を離れている私たちにはとても嬉しく、村の人たちの厚情に今でも感謝しています。

昭和20年5月に戦争が激しくなったことから、それまで滞在していた寮舎は軍が使用することになり、私たちは島根と広島の県境近くの山奥に再疎開することになりました。そこでは、3つのお寺に学年ごとに滞在し、地元の学校に通うこともなく8月の終戦を迎えました。

昭和20年の9月、写真が撮影されたその日、寮長の先生から、「日吉国民学校校区の中で、親御さんが亡くなられたのは○○君一人です」と発表があり、○○君は初めてそれを聞いたのでしょう。声を上げて泣き崩れていたことがいつまでも私の脳裏に残っています。

9月は戦争が終わっていたにもかかわらず、豪雨による水害で鉄道が一部不通になり、10月に復旧してようやく大阪から母親が迎えに来てくれました。

疎開中の昭和20年6月に西区(現在の浪速区幸町)の私の家は大空襲により焼失し、親戚を頼って奈良県の法隆寺駅近くに引っ越しましたが、疎開先から帰ってきた私は、転校したくなかったので、日吉国民学校まで関西本線に乗って片道1時間をかけて汽車通学をしていました。

港町(現在のJR難波)から天王寺の間はいくつかの蔵が焼け残った他は、一面焼け野原だったことを覚えています。翌21年に阿倍野区に転居し、そこから日吉小学校に通い、昭和22年3月、音楽室で卒業式を終えて、私は日吉小学校を無事に卒業しました。

最後に、学童疎開のおかげで、機銃や大空襲の爆撃を知ることもなく、おなかのすいた毎日でしたが、都会育ちの私にとっては、経験できない日々となりました。現在の平和な日本がいつまでも続くことを祈っています。

お便りは以上です。
子どもたちには、2学期にあらためて児童朝会等で、和田さんのお話を紹介させていただきます。

日吉小学校の子どもたちがこれからも健やかに成長できるようサポートしてまいります。明日は日吉小学校合唱団がNHK子ども音楽コンクールに出場します。平和への願いを込め、世界中に、また、卒業生のみなさんにも歌声を届けたいと思います。

卒業生の和田悦子さん、この度は本当にありがとうございました!