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戦火の敷津  その人からのお手紙

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昨年3月に、一冊の絵本が送られてきました。

「まちがやけた」

副題は、「昭和20年3月13日−14日 大阪大空襲体験記」。
絵本の作者(静岡県在住)は当時5年生。卒業式で在校生代表として「送辞」を読むはずだったそうです。
今回、「戦火の敷津」リメイクにあたって学芸会の案内を差しあげたところ、丁寧なお返事をいただきました。



学芸会のお知らせありがとう。

当日私は敷津小の5年生でした。次の日は6年生の卒業式でその予行演習が行われました。その日の夜から翌日の未明にかけて空襲があったのです。

私の友達・同級生の多くは滋賀県に集団疎開していて敷津国民学校にはいませんでした。私は南河内の親戚に疎開していましたが、空襲の日のしばらく前から実家に戻っていました。一晩で学校のまわりは灰になってしまったので、生徒も先生もいなくなり授業も卒業式も行われなくなりました。私もその日から今まで同級生のだれとも会っていません。集団疎開していた人たちも迎えに来た親といっしょに縁故をたよってどこかへ行ってしまったのでしょう。親が亡くなった人たちはだれが迎えに行ったのでしょう。

予定していた卒業式がなくなった6年生はそのために集団疎開から戻ってきて空襲にあってしまったのです。その人たちは大人になってから名前をたよりに電話をかけまくり見つかった人たちだけで30年後に卒業式を挙げたということです。

私は母の親戚をたよって北河内郡交野町(現交野市)にふたたび疎開し、そこの交野国民学校で6年生を送りました。私は敷津小の附属幼稚園(同じ敷地内にありました。今の南西角です。)に入って5年生を終えるまでの7年間敷津小にいたことになるのですが、卒業はたった1年間いただけの交野小学校です。

絵本「まちがやけた」に書いたことは今の町のようすからは想像もできないでしょう。しかし、あれは71年前にほんとうにあったことなのです。敷津小から地下鉄大国町駅へ行く途中にはまだ原っぱがあり、市電が走っていた頃の話です。



学芸会当日
子どもたちの熱演の後
終わりのことばで
この手紙を読ませていただきました。




校長発


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