さくら・夢授業バスケットボール教室スタッフの方の説明に耳を傾ける表情は、みんな真剣でした。練習中には「バスケットボール重たい」や「ドリブルむずかしい」とあちらこちらから子どもたちの声が聞かれました。 バスケットボールに興味がある子もない子も今回のバスケットボール教室に参加して、バスケットボールをより身近なスポーツだと感じたことでしょう。本当に貴重な経験ができました。エヴエッサ大阪のみなさん、本日は大変お世話になりました。ありがとうございました。 (5年担任 大西) 4年 天王寺 校外学習4年生は校外学習で天王寺動物園と防災センターに行ってきました。 家から近いこともあってか、天王寺動物園に行ったことのある児童が多い中でしたが、 友だち同士でまわる天王寺動物園は新鮮だったようで、限られた時間の中、精一杯使って走り回っていました。動物に詳しい子がたくさんいて、 「このクマがおなじところをずっとまわってるのは、ストレスのせいやねん」とか 「ヒツジの目は、マイナスになってるねんで」 などいろんなことをみんなに教えてくれました。 動物園の中でお昼ご飯を食べて、防災センターに向かいました。 防災センターでは、実際に地震が起こったあとの町がリアルに再現されていてその中で、どのように行動するべきか体験しながら教えてもらいました。地震体験装置を使って、阪神大震災とこれから起こると予想される南海地震を体験してみました。ものすごい揺れで大人の僕でも物につかまって立っているのがやっとという状態でした。 盛りだくさんの一日で、帰ってきた子どもたちはみんな笑顔でした。 【4年担任 諏訪原】 教室はまちがうところだ 11月28日(月)朝会講話この話は、私が担任時代からずっと子どもたちに語りかけてきた大好き、かつ大切な話だ。 その昔、2003年4月8日に、5年生の学級開きで話したことをクラスの女の子が作文に書いて、それが『大阪の子No.42』に掲載されている。 始業式の日、先生はいきなりポケットから、電球を取り出した。 「この電球を発明した人は誰ですか。」 誰かが、「エジソン。」と答えた。わたしも知っていた。 「エジソンはこの電球を発明するために、何回も失敗して、何度も何度も実験をしました。何回くらい失敗したでしょう。」と先生がたずねた。 わたしは、300回くらいかなと思った。 先生が、20回、200回、2000回、20000回と聞いていった。 ほとんどの人が200回と答えた。一人だけ20000回に手をあげた。 (そんなはずないやん。)と思っていると、 「正解は20000回です。」と先生が言ったので、びっくりした。 エジソンが、20回の失敗であきらめていたら、エジソンが200回の失敗であきらめていたら、エジソンが2000回の失敗であきらめていたら、電球は発明されなかった。今も世の中は真っ暗だったかもしれない。 しかも、エジソンはインタビューされた時に、 「私は失敗などしていない。20000回、まちがい方をみつけたのだ。」 と言ったと聞いて、もっとびっくりした。 失敗してもあきらめずにがんばったらうまくいくことがわかった。 先生は言った。 「失敗するからできるようになるのです。失敗するから強くなるのです。教室はまちがうところです。どんどんまちがえて、どんどんかしこくなりましょう。」 わたしは、今まで、まちがった時、どきどきしていたけど、先生が、「教室はまちがうところだ。」と言ってくれたので、今はまちがえても、ぜんぜんどきどきしなくなった。 わたしはいつも、お姉ちゃんとかに、 「自信もち。」って言われてきたけど、ずっと自信がもてなかった。でも、今はなんか自信がもてるような気がする。 まちがってもいい。またやりなおせばいい。 これからも教室で、何回も何回もまちがうと思うけど、また失敗してかしこくなっていけばいい。 教室はまちがうところだ。 わたしは、がんばる。 昨年、彼女の結婚式に呼ばれて、この作文を皆さんに披露することができた。 校長発 戦火の敷津 その人からのお手紙「まちがやけた」 副題は、「昭和20年3月13日−14日 大阪大空襲体験記」。 絵本の作者(静岡県在住)は当時5年生。卒業式で在校生代表として「送辞」を読むはずだったそうです。 今回、「戦火の敷津」リメイクにあたって学芸会の案内を差しあげたところ、丁寧なお返事をいただきました。 学芸会のお知らせありがとう。 当日私は敷津小の5年生でした。次の日は6年生の卒業式でその予行演習が行われました。その日の夜から翌日の未明にかけて空襲があったのです。 私の友達・同級生の多くは滋賀県に集団疎開していて敷津国民学校にはいませんでした。私は南河内の親戚に疎開していましたが、空襲の日のしばらく前から実家に戻っていました。一晩で学校のまわりは灰になってしまったので、生徒も先生もいなくなり授業も卒業式も行われなくなりました。私もその日から今まで同級生のだれとも会っていません。集団疎開していた人たちも迎えに来た親といっしょに縁故をたよってどこかへ行ってしまったのでしょう。親が亡くなった人たちはだれが迎えに行ったのでしょう。 予定していた卒業式がなくなった6年生はそのために集団疎開から戻ってきて空襲にあってしまったのです。その人たちは大人になってから名前をたよりに電話をかけまくり見つかった人たちだけで30年後に卒業式を挙げたということです。 私は母の親戚をたよって北河内郡交野町(現交野市)にふたたび疎開し、そこの交野国民学校で6年生を送りました。私は敷津小の附属幼稚園(同じ敷地内にありました。今の南西角です。)に入って5年生を終えるまでの7年間敷津小にいたことになるのですが、卒業はたった1年間いただけの交野小学校です。 絵本「まちがやけた」に書いたことは今の町のようすからは想像もできないでしょう。しかし、あれは71年前にほんとうにあったことなのです。敷津小から地下鉄大国町駅へ行く途中にはまだ原っぱがあり、市電が走っていた頃の話です。 学芸会当日 子どもたちの熱演の後 終わりのことばで この手紙を読ませていただきました。 校長発 揺れているよ!はっきり言って怖いです。地震の恐ろしさを体験しました。 |
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