3月13日(月)、今年度最後の児童朝会は、校長先生から6年前の3月11日に
宮城県山元町立中浜小学校を襲った「東日本大震災」の時のお話でした。スクリーンで映像を見ながら90名の児童・教職員、保護者が校舎屋上の倉庫【写真右】に避難し、津波を逃れたということでした。
あらかじめ津波被害を想定して建てられた校舎【写真左】の構造と、教職員の適切なとっさの判断によって、児童たちの生命が守られました。同じ
「中浜小学校」という名前の学校で、奇跡のようなことがあったというお話でした。
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「3月11日 あの日あの時」
「震災を乗り越えて〜山元町立中浜小学校のケース〜」より
14時46分は3年生以上が6校時の授業中。2年生以下は授業が終わり上級生と一緒に下校するため、校庭で遊んで待っていた。この日の職員の勤務状況は、出張や年休で手薄だった。
かつて経験したことのない大きな横揺れ。宮城県沖地震が「いよいよ来たか」と感じたが揺れの大きさは、予想をはるかに超えた。職員室には養護教諭が一人だけ。私は、揺れる中を職員室内の放送機から校内放送で指示をはじめた。そこへ教務主任が戻ってきたのでテレビをつけさせた。テレビの情報は大津波警報で予想到達時刻が10分後を確認。二次避難所の坂元中学校へは平坦地を通り低学年の子どもの足で20分以上かかる。そこで坂元中学校への避難は断念した。この時災害無線は使用不能。外で、消防車が何か言っているのは分かったが、よく聞き取れなかった。校庭には低学年の子どもたちが2学年担任と丸くなって座っているのが見えた。私は「津波だ。上にあがれ。」と指示。担任はすぐに察して全員を校舎内に入れ二階に上がって行った。
2階の図書室前で点呼をしている際、テレビは5m〜10mの波であると報じている。ここで屋上へ上がることを決断。この頃から、何人かの保護者が引き取りに来た。学校としては、いつ津波が来るかわからない状況の中で引き渡すより保護者にも屋上に上がることを勧めた。【中略】
津波は大きなものは第4波まで襲ってきた。第一波は突然海面が盛り上がり、圧倒的な水量であふれ出し、周りの民家を土台からすべて押し流した。あっという間に我々は海上に取り残された。第2波は一波の上に乗り校舎の2階まで達した。その時はるか沖合では第3波と第4波が恐ろしい高さで迫ってきていた。「このままの高さで校舎に直撃したら、我々は吹き飛ばされてしまうのではないか」と、覚悟するほどだった。しかし、第1波と2波が引き波に変わり、沖で3波とぶつかり砕けた。それでも3波は2階の天井まで達し、校舎東の壁にしぶきを上げるほどだった。第4波は、3波程の高さには達しなかった。
頑丈な校舎は地震と津波に耐えた。しかし津波が去った後、校舎は孤立。屋上の屋根裏倉庫で一晩を明かした。屋根裏倉庫の中にあるものすべてを使って一晩を過ごす工夫をした。
第4波を無事過ごし、最大の危険が去ったとき、三年生の男子が「おなかすいた」のひと言。しかし、校舎はまだ海の中、完全に孤立しているということをきちんと知らせなければならなかった。
私は、地区民、保護者も含めて全員に対して現状と、今後どうするかをはっきりと伝えることにした。屋上にいた全員がしっかりと聞いてくれた。「今夜はここに泊ります。食べ物はありません。水もありません。とても寒くなります。でも、朝まで頑張ろう。暖かい朝日は必ず昇るから。」この後、全員で寝るための準備を素早く行った。仮設トイレを作った。午後6時頃の暗くなる頃には皆横になっていた。空には見たことのないような星が瞬いていた。放射冷却で気温がぐんぐん下がった。
児童全員がかぶっていた防災頭巾は、寒さを防ぐ防寒頭巾であり、枕であり、安心感を生む優れものであることが分かった。みんなの無事を伝えようと携帯電話を持っている人たちが連絡を試みた。電話はつながらないもののメールは瞬間的にサーバーにつながることがあるようで、つながった瞬間に送受信できた。午後6時頃になんとか役場と坂元中学校へ連絡が通じたようだった。
夜中はラジオとワンセグで情報をとり続けることができた。懐中電灯は、2本あったので一本はつけっぱなしにし、もう一本は、トイレに行く時だけ使うことにした。途中私が2階に探索に行った時、単一乾電池2本を発見したので、一本の懐中電灯はつけっぱなしにすることができた。教頭先生は2階からブルーシートを探してきた。
夜中に1階まで降りて体育館を探索してくれた勇気のある人たちが体育館の体育倉庫から非常用毛布を発見した。突然厳しい環境が和らいだ。毛布はアルミの真空パックに入っていたので全く濡れていなかった。アルミパックは防寒着となった。続く余震と寒さに耐えながら、全員が無事に朝を迎えた。翌朝6時、自衛隊の大型ヘリコプターが上空を通過した際に我々を発見。全員無事救助された。