?令和2年8月1日(土)ホリデーコラム11
「学校に頼らなければ学力は伸びる」(山本崇雄 著)より、
ボクが問題にぶっかった時もそうだけど、生徒たちが迷っているのが見えた時は、いつもここに戻るように指導しているんだ。その1つが自分を許す「Forgiveの精神」
Forgiveは「許す」という意味の英語だ。そもそも、キミたちは一人ひとり違ったスピードで成長しているから、成長の度合いはそれぞれ「違っていい」はず。ところが、われわれは年齢によって「できるはずのこと」「できないこと」について多くの思い込みにとらわれがちだ。
例えば、算数の九九が小学校高学年になっても怪しい子がいるとしたら、この子は勉強ができない子だろうか?もしそう考えるなら、それは「九九は小学校2年生で覚えるもの」という思い込みにとらわれているからだ。
じつは、この「思い込み」を作っているのが学習指導要領。学習指導要領は、日本のどの地域でも同質の教育ができるように文科省が作っているもので、学年ごとに教師が教えるべき内容が示されている。
もちろんそれは素晴らしいことなんだけど、見方を変えれば、教える側の都合で作られているとも言えるんた。だって、一人ひとりの成長スピードの違いを考えたら、何をどの学年で学ぶかはもっと自由であるべきだし、理解度によっては、やり直す機会を持てることが当たり前になってほしい。(中略)
今の学校には、時間に支配された「直線の時間」が流れている。中間考査や期末考査があり、その間にいろいろな行事が詰め込まれている。試験で悪い点を取ると形式的な追試や課題が出され、「できる、できない」にかかわらず次のテストに向かって授業は進んでいく。
こうした、時間に支配された「直線の時間」が流れる学校では、「できる生徒」と「できない生徒」を生み出す。決められた時間で決められた範囲の問題を解かなければならないので、時間内で終わらなければ「できない生徒」という烙印を押されることになる。(中略)
だから、ボクは「学校は時間に支配されるべきではない」と思っている。「できる、できない」を表にして貼り出す必要はない。一人ひとりの学びのスピードは違っていいんだ。よく「大学生になっても分数の計算ができない」と嘆く人がいるけと、ボクは何歳であってもできないことがあれば、「できるようになる可能性がある」ととらえるべきだと思う。年齢を問わずいつでも学び直せるんだ。(中略)
人は誰もがそれぞれ自分の時計を持っている。それはけっして、他人と比較するものではないと思ってほしい。
「自分を許す」とは、言い換えれば「自分を好きになる」ことではないでしょうか。今の自分を自分が認め、自分らしくありのままでいることではないでしょうか。Forgiveの精神をすべての人が持てば、すべての人が安心できる居場所のある空間ができると思います。