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教えるからまなぶ(つなげる)へ

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?令和2年11月3日(火)ホリデーコラム47
「2020年からの教師問題(石川一郎 著ベスト新書)」より、

本書では所々で、生徒が「主体的」に学ぶことの重要性を指摘してきましたが、「指示する、指示を待つ」の関係性が教師と生徒の間に結果的に構築されてしまえば、それは、「主体的」に学ぶことの妨げにしかならないのです。
そういえば、2020年の教育改革に反対している教師の中に、「主役感」の強い人が大勢見受けられる気がするのは、私だけなのでしょうか・・・
さて、「主役感」を持つことにはもう一つ問題があります。教師が「主役感」を持つと、生徒に結果を強く求めるようになることです。(中略)
生徒が結果を出すこと自体が教師の目的になってしまうと、生徒が途中過程で悩んだり、失敗したりすることは、無駄なことととらえられてしまいがちです。
第二章で取り上げた「モヤ感」「クリティカルシンキング」「自分軸」は、生徒が主体的に物事に取り組む過程で生まれるものであり、「主役感」のある教師のもとでは生まれません。
教師の「主役感」は、生徒の多くの可能性を奪うものでしかないのです。





教師は「教えないこと」です。自分が「なんとかしなければ」や「なんとかしてやる」なんて思わないことです。これって仕事を放棄してる?楽してる?と思われたら大間違いです。反対に教えるよりも難しいことです。それは、子どもたちの一挙手一投足を見逃さず、子どもの変化に敏感になり、子どもから学ぼうと謙虚に、真摯に向き合わなければなりません。これは地道な、粘り強い関わりが不可欠となります。正直めんどくさい作業です。教えている方がよっぽど楽かもしれません。
しかし、2020年以降の学校教育は「教えるからの脱却」が掲げられ、「学ぶ(つなげる)」に移行しなければなりません。
「Teacher からFacilitator へ」です!
主役は子ども!教師に主役感は必要悪なのです。

あれ?色が違う?

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令和2年11月2日(月)図書館リニューアル工事終了!
 見てください!
 壁が取り除かれ、広ーい空間ができあがりました!また、床のカーペットも新調!一部色分けをしています!なぜかって?それは次回のお楽しみ!
 明後日に職員作業で本棚を入れていきます!新しくなった図書館に子どもたちがたくさん集い、本につかる毎日が楽しみです!

やった!惜しい!

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令和2年11月2日(月)五色百人一首大会
 朝から雨が続く午後。
 5.6年生の子どもたちが多目的室で恒例の「五色百人一首大会」を開きました。
 昔の日本語に親しむ活動として取り組んでいる百人一首をさらに上達させるとともに、他学年の子どもたちとともに楽しむことをめあてに取り組みました。
 子どもたちは一瞬の静寂と一気のタッチに一喜一憂します!

ちがっていいんです!

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?令和2年11月1日(日)ホリデーコラム46
「2020年からの教師問題(石川一郎 著ベスト新書)」より、

今回の教育改革は、急速なグローバル化がその背景にあることは前述した通りです。グローバル化するということは当然異質性の文化を取り入れなければなりません。
一方日本は、島国であり単一民族であることから、同質性が高い社会と言えます。この同質性の高さが、日本の教育に大きな影響を与えてきたと考えられます。(中略)
例えば日本の学校では、教室において、お互いに気を使い合い、その場の空気を読み合って、多様な考え方の尖った部分をそぎ落としながら意見をまとめていく様子がよく見られます。話し合って、お互いの立場を理解できれば、意見が一つにまとまるのは当然であるといった感覚があるのです。
このような教室の様子は、同質性の高さから生まれてきていると感じます。一人ひとりの考えは、そんなに違わないという感覚がこの状況を作っているのではないでしょうか。
海外で行われている教育の話を聞き、実際にその現場に足を運んでみて感じることは、異質性が前提にあることです。
肌の色・目の色が違う人、文化も宗教も違う人が同じ教室に存在しています。まさに異質性の集団です。意見が異なることは当然であり、それを無理に一つにまとめるのは困難なことだと感じます。つまり、そこには、日本にはない別の協働の形があるのです。




「みんな同じ」では、もう過ごせない時代です。世の中は目まぐるしく変化し、価値観も多様化し、考え方や生き方も大きく変化している時代に、学校だけが過去の習慣や風習に囚われていてはいけません。異質性を取り入れなければ、というか、異質性を当たり前と思わなければ、ますます学校は社会から取り残されていきます。そして、なによりも不幸なことはその学校で学ぶ子どもたちです。みなさんはどんな子どもを育てたいですか?違いを受け入れ、認め合い、互いに向上できる子どもを育てたいですよね。大人から変わりましょう!もっと柔軟に、今からを見つめて、ワクワクする大人を目指しましょう!

あたりまえの社会(学校)へ

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?令和2年10月31日(土)ホリデーコラム45
「2020年からの教師問題(石川一郎 著ベスト新書)」より、

今の日本の教育が出来上がった背景を、近代国家として歩み始めた明治時代から、4つの時代区分で考えてみたいと思います。
1.明治から第2次大戦まで
政府としては、「富国強兵」「殖産興業」を迅速に進める必要から、国家の発展に寄与する人材の育成を教育に求めた。(中略)ただ、結果的に教育の現場では、「自分の意見や考えを主張する」ことよりも、「指示されたことを実行する」ことの方が重視されることとなりました。

2.第2次大戦からバブル崩壊まで
復興が進む中、ベビーブームが到来し、子供がとても多く競争が激しい時代になっていきます。そんな時代に求められたのは、「自分の意見や考えを主張する」ことではないでしょう。競争社会においては、「指示されたことを実行する」ことで、「よりよいポジション」を獲得することが、先決だったと思います。(中略)そのような社会情勢において、重視されたのは、やはり「学歴」でした。

3.バブル崩壊からゆとり教育まで
1990年代、「努力」や「頑張る」といった言葉が、何となく、生徒と接する上で違和感を持つようになってきました。今思い起こすと、日本社会が成長という神話を失っていくにつれて、「努力をしても報われないのではないか」と考える風潮が社会に広がっていったのです。

4.ゆとり教育から今日まで
残念ながら、「ゆとり教育」により、当時の有馬文相が懸念していた「きつきつの授業で画一的に教え込む」方向により進むこととなりました。しかし、21世紀も十数年が過ぎ、教育を取り巻く外部環境の変化は、「ゆとり教育」導入時に議論されたように、大きなものになりました。そして、今後の社会に予想される激しい変化には、現状の教育では対応できないのではないかという議論が再燃しています。さらに今、社会の求める人材と現行の教育で供給される人材とのかい離が、社会で大きく叫ばれるようになりました。





こうした時代の流れを振り返ると、教育と社会は密接につながっていることがよくわかります。教育の目的は何か?それは、子どもたちに「社会で生きてはたらく力を身につけさせること」です。ならば、どんな社会であるかを見抜く目を持っていなければなりません。と同時に、「学校はミニ
社会」でなければなりません。様々な人が入り乱れて、当たり前に一緒に過ごす場でなければなりません。互いの違いを知り、互いに違いを認め合い、互いに尊重し合う社会(学校)でなければなりません。そんな当たり前の社会(学校)をつくりましょう!
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