戦火の敷津 最後の同窓会
- 公開日
- 2019/11/10
- 更新日
- 2019/11/10
学校日誌
昭和20年3月14日の卒業式のために、疎開先の滋賀県水口町から一時帰宅していた敷津国民学校の6年生約100名
しかし前日3月13日夜
第一次大阪大空襲で
難波も大国町も敷津の町も一夜にして焦土と化し
卒業式どころではなく
ほとんどの家が焼かれ
学校も焼失し
多くの命が失われ
町中に黒焦げの死体の山
戦後散り散りばらばらになった同期生が連絡を取り合い、昭和43年には50 名近くが再会して、敷津小学校で「30年後の卒業式」が行われ新聞各紙でも紹介されました
それを機に、後世に自分たちの体験を残そうと手記をまとめられ、『ふるさとを失った十二才』として自費出版されました
その本を職員室の本棚に見つけたのが赴任した2010年
そして2012年の学芸会で「三月十三日〜戦火の敷津〜」の上演が、当時20代の担任の熱い思いで実現しました
しかし当時は、その本を書かれた方々と連絡をとるすべもなく、生きておられるのかもわからず、本に書かれたことをもとに脚本を作っていました
2014年も時の6年担任が思いを引き継ぎ、「戦火の敷津〜未来へ〜」を上演しました
2016年春
空襲当時4年生だったという辻和子さんから突然お電話をいただきました
大阪に住んでいるけれど、梅田も難波も天王寺も行くけど、大国町駅にはあの空襲以来、70年以上降りたことがない
80歳を過ぎて一度敷津を訪ねてみたいとおっしゃっていました
「戦火の敷津 2016」に際して、子どもたちが招待状を送りました
しかしお怪我をされて動けないとのことで、ご丁寧なお手紙をいただきました
そして学芸会で演じた子たちの卒業式直前に、やっと来ていただけることになりました
2年後の次の学芸会の時は、事前に語り部に来ていただきたいとお願いして、引き続きお元気でいらっしゃることをお祈りしていました
そして2年が過ぎ2018年11月
ついに空襲の生の声を聴ける日がきました
戦争体験の語り部さんの話を聴くことじたい珍しい
その上「ここの話」
自分たちの町の自分たちの学校の話
お相手は学校の大先輩
子どもたちはさらに迫真の演技に磨きをかけました
そして
そして
辻さんの弟さんが当時の6年生、しかもあの本を編集した明仁二三雄さんと懇意にしておられることがわかり
学芸会当日
自分たちが演じるその人が、74年の時を経て目の前に現れたのです
子どもたちは心をこめて力いっぱい演じました
そして2019
今年は音楽発表会の年です(明後日!)
ところが
その明仁さんから「もう米寿を迎えて高齢になってきたので、今年で同窓会を解散することになって、最後に小学校で集まらせてほしい」と依頼があり、二つ返事で答えました
時は11月8日、音楽発表会の前々日
子どもたちは、合唱と合奏の最終リハーサルと、清掃準備の日です
それでも何とか交流の場をもたせたい
子どもたちになるべく負担をかけずに
そこで
先月、木津中学校の文化祭で「戦火の敷津」のプレゼンと歌「青い空は」(敷津バージョン)を発表してたものをリメイクして見ていただくことにしました
せっかくの貴重な
奇跡的歴史的な交流の場面を記録に残してほしいとプレスリリースしたら
関西テレビ
読売産経毎日なんば経済新聞の取材を受けることになり
せっかくの貴重な
交流の場に立ち合ってほしいと
地域の方々にも呼びかけたところ
たくさんの町会の方々も
議員さんも区役所の方々も見届けに来てくださいました
昨年の5年生は、6年生として、75年前の6年生と対峙できたし
来年の6年生として、5年生の心に灯を点けることができました
これで
平和のバトンをつなぐことができたと確信して
いざ
戦火の敷津2020へ